中途失聴者、難聴者等の障害に関する言葉について
中途失聴者についての客観的に統一された明確な定義はないと理解しています。
大枠では、音声日本語を獲得した後に急激な聴力低下を経験、記憶している方とされていると思います。失聴年齢や低下までの期間、失聴の程度(聴力・dB)(語音明瞭度・%)については、専門家によっても言っていることがまちまちです。
小川自身の印象では、例えば人工内耳をする必要に迫られた方なら、中途失聴者と言ってもあまり違和感がないです。※人工内耳も全ての人が適応するわけではありません。為念。
難聴については、日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会が医学的にその状態、客観的には聴力(dB)で軽度、中等度、高度、重度難聴(全ろう)という区別をしています。語音明瞭度(%)も事実上、この客観的区別に該当します。
これに該当する人を難聴者という場合がありますが、本人の障害自認とは直接結びつきません。加齢で聞こえにくくなった軽度・(55dB程度までの)中等度難聴者の場合は、聞こえにくくても自分が難聴だとは思っていない方がほとんどだと思います。
つまり、聴力だけでは、医学的に「難聴」という状態だとは言えても、他人のことを「難聴者」とは決めつけられないのです。
逆に、人工内耳の手術の適応する「重度難聴」のレベルでも、補聴器で生活できていて、自分のことを「難聴者」だと言う人も大勢います。補聴器で大丈夫だから難聴者なのだ、という理解かと思われます。
健聴の状態から聞こえにくくなったとき、本人が難聴者、中途失聴者と自認するまでは、本人の障害の状態の理解、環境などにより程度差、時間差があります。
マンガ「淋しいのはアンタだけじゃない」の著者、吉本浩二氏の講演会で聞いたのですが、氏を担当していた小学館の桜井編集者が、聴覚障害者の多様な状態をさして「聞こえのグラデーション」、という言い方をしていたそうです。これ、わかりやすい言葉なのでオガワも愛用しています。聴覚障害のさまざまな広がり、違いの状態は、グラデーションという言葉がぴったりです。
どこで「中途失聴者」「難聴者」あるいは「ろう者」のような障害自認が生まれるのか?というと、帰属する団体や周囲の環境の影響が大きいと思います。
ろう者の場合、幼少時からろう学校に帰属する中で、先輩後輩同級生の中でろう者の自認が身につきやすいと思います。特に手話という言語性の強いコミュニケーション方法を共有して独自のコミュニティ、文化を築いていることが、アイデンティティ上の結びつきを強くしています。
中途失聴・難聴者は、中途失聴・難聴者団体ではじめて自分を客観視できたという方が多いのでは?オガワがそうだったので…。
聞こえない環境に本当に困って悩んでいたので、情報を求めました。情報を得る方法は、地方では40年ほど前は本を読むことが中心でした。書籍でも自分が難聴者であるという自覚はぼんやりとできてきました。団体があることを知り、その中でさらに実践的な情報を得ることができ、周囲の方や団体の影響で、難聴者としての自認が育ちました。
現在はネットの普及、情報の多様化で、さらに情報が得やすくなっていると思いますが、社会の中で明確に困る環境は、以前と比べて減少しているように思います。当事者団体にたどりつかなくても、時間をかけて自力で問題解決できる・できた、という方は相対的に増えてきているのでは。その中で障害自認が進んだ、という方もいるようです。
このように、中途失聴・難聴者の場合には客観的な区別しにくさがある上に、本人の障害自認までの過程に個々に時間的・内容的な差があることが、本人のアイデンティティに影響することがあります。
どういうことかというと、アイデンティティが固まっていないときに、周囲からの雑音(?)が、しばしば本人に精神的な苦痛を与え、本人の障害の理解・受容を遅らせ、社会の中での適合を妨げてしまう原因になることがあるのです。
本人の障害自認(アイデンティティ)を揺るがせるような行為は
悪意がなくても差別にあたる可能性があると思います。
本人がアイデンティティのゆらぎを起こし、精神的に苦痛を感じるような状況は
精神的なハラスメントにあたるかもしれません。
ここ数年で、無自覚に他人を精神的に傷つける行為がマイクロアグレッションとして知られるようになってきました。もともとは1970年代、アメリカの精神医学者チェスター・ピアス氏が提唱したのがはじまりだそうです。
現在は、他人が意図せずに特定の属性(性別、人種、性的指向など)への偏見を背景に、結果的に相手を傷つける行為が該当します。
悪意があれば明確に差別です。
障害に関する内容であれば、やめてほしいと言ってやめない場合も合理的配慮の不履行、差別にあたると思われます。
本人の障害自認(アイデンティティ)を助けようと、よかれと思っての情報提供も考えものです。情報提供することで、アイデンティティのゆらぎを起こしかねません。情報提供の程度や内容が、本当に本人に適したものなのかどうか、経験者や識者でないと、判断が難しいところがあります。
こう考えると聴覚障害者の適切な障害自認(アイデンティティ)への誘導、難しいものがありますね。
まず第一に必要なのが、本人の自覚。
多様な聴覚障害者に出会う中で、本人に適したロールモデルを見つけ、障害自認を深めていくことが望まれます。
周囲からできる方法としては、その過程を早めるよう、アイデンティティには触れずに促すのがよいのかもしれません。
オガワ自身の障害自認は、現在適当な言葉がないと思っています。
当初は難聴者としてのアイデンティティを強めていましたが、聴力が平均95dBというレベルになり、補聴器よりも手話を使うようになり、社会一般でいう難聴者のイメージとは違ってきていることを自覚しています。
障害自認を聴かれ「難聴者ですか?」と聴かれると、ちょっと違うなあと思っています。そのうち、だんだん腹がたつようになってきました。どうして障害自認を聴かれるたびに、気持ちがぐらついてしまうのかと。
その頃にはアイデンティティ理論は知っていたので、斉一性の問題で気持ちが動いてしまうのだと理解するようになりました。
自分を表現する適当な言葉がないかと探したりしました。自分で作ろうかと思ったりもしました。ですが、言葉は生きものです。皆さんが使う言葉でないと意味がありません。
私は「難聴者」でも「中途失聴者」でも「ろう者」でもありません。
今は、障害自認以前に、「私はオガワです」と言うようにしています。
カテゴライズが必要なのであれば、不本意ですが「聴覚障害者」を選びます。