石巻市聴覚障害者会長 トラさん
会社にいたとき被災した。愛車セルシオのところに。どうするか迷ったが、ろう者の仲間と日和山へ上って避難。眼下の町が流されていった。上って三日間、水がひかず。妻とも連絡とれず。3日後、水が下がって家に戻り、やっと会えた。互いに死んだかと思っていた。ろう者4人亡くなったのが残念。
今は仕事で山形へ。交流会のために戻ってきた。(拍手)

O原Sおりさん 会社近く。3/9にも地震あったが準備しなかった。会社では同僚数名の中にろう者は私一人。他の人は手話を知らない。地震が来たときは、揺れる時間がいつもと違って長く、必死にしがみついていた。その日は雪が降っていた。
揺れがおさまって社長と息子は海の方に様子を見にいった。同僚に、手のひら文字で「つ、な、み」と書いて、津波が来るのか、と聴いたら「来る」と言われて、初めて状況がわかった。帰りたいというと同僚は少し話していたが、どうしても帰りたいと言って帰らせてもらった。外に出ると渋滞。やっと着いたらガラスが散乱。片付けていたら主人が戻ってきてびっくりした。家の前まで津波が数十センチ。出られない。娘は山の上の学校。翌日になっても水がひかない。食べ物がないし寒い。前に使ったガスがあるのを思い出して、暖かい食事ができた。
地震の後、水道がずっと止まってしまった。毎日、水場に3,4時間ならんで水をもらった。

高橋さん
保育園勤務。聴者。一度目は横揺れが長かった。二度目は突き上げるように強かった。
タンス倒れ、玄関も出られない状況。保育所では昼寝の終わる時間。子どもたちもパジャマ姿で何が起きているか、わからない。家に送る準備をしていると、携帯を見ていた先生が「津波6m、避難しろ」と。初めて状況がわかった。
食べるものもほとんどなく、おばあちゃんたちがパンや果物などを持ってきてくれると、少しずつ分けて食べさせた。着るものも子どもたちのジャンパーだけ。
誰かが持ってきたラジオで状況わかった。子どもは迎えに来たおばあちゃんを見たとたん、安心したようにどっと泣き出す。緊張していたのだろう。
市内の人はほとんどが身近な親戚などなくしている。

君田さん(写真右)とオガワのツーショット
$『いくお~る』 聴覚障害に関する情報ブログ-君田さん

君田清一さんろう者
住まいは中里。3/11は川が近く津波が腰のあたりまで来て、床上浸水。ひいたあともヘドロがたまり、匂いがひどかった。しばらくの間マスクをしないと歩けなかった。
4/7夜に余震があった。避難勧告が出た。勧告は解っていたが、寒いし疲れていて、逃げる気がしなかった。必死になって寝た。
死ぬかもしれないとちょっと気になったが、そのときはどうなってもよいと思っていた。
ボラ協力来たのが4,5月。やっとヘドロの掃除できた。
家の修理に1年かかった。

いろいろなお話しを伺いました。本人とお話しすることで、オガワもそうですが、参加された皆さんも得るものがたくさんあったようです。
名残を惜しみつつお別れし、18時過ぎに南三陸ホテル観洋に着きました。
明日は早朝タクシーで志津川病院跡など見てきます。見ないと何かが終わらない気がします。