$『いくお~る』 聴覚障害に関する情報ブログ-瀬戸内海族3

耳無し船長、太平洋を渡る   その3
          中途失聴者 石 川 雅 敏(福山市)
「坂本竜馬に学ぶ」
 坂本竜馬がまだ政治に目覚めていない時、仲間は「尊皇攘夷、尊皇攘夷」と叫びながら、敵の凶刃にバタバタと倒れていた。彼はあせっていたが、何も出来なかった。
 京都の伏見、寺田屋の二階から前を流れる淀川の流れを見ながら作った、都都逸を残している。
 “何をくよくよ川端柳 水の流れを 見て暮らす”
 くよくよしていても、世の流れには逆らえない。柳のように、吹き当たる風に逆らわず自然体で時期を待つ。やがて世の中が自分を必要とする時が来るだろう。自分の出る幕が開くだろう。それまでは剣の道に励む・・・。そう言って焦りを抑えた。
 やがて歴史が彼を必要とした。鎖国日本から開国へ・・・尊皇攘夷から大政奉還のシナリオを書き終えた後に暗殺された。
 私は司馬遼太郎が書いた小説「竜馬が行く」に人生のヒントを得た。無性に太平洋と竜馬の銅像を見たくなって高知の桂浜へ行った。人間の話し声は不明瞭でも、浜へ打ち寄せる怒涛の波の音は全身を震わし、励ましてくれた。沖合いに視線を転ずれば、水平線に浮かぶ自分のヨットの幻が見えた。太平洋は優しい海だと確信できて、泣けてきた。待っとれよ、いつか俺のヨットを走らせて見せるぞ・・・・。

「ヨットを手作り」
 さて、もう一匹の兎はヨットで日本脱出の夢の実現だ。しかし、ヨットは乗った事も触った事も無い、映画や写真で見ただけの物だ。だが、風の力で走るのだから、どんなに走っても燃料は無料。タダで、外国へ行ける・・と言うのは、貧乏青年にとってこの上ない魅力に映った。 
 この田舎町福山には個人でヨットを持っているものは居なかった。 
 有難い事に、乗り方の本、作り方の本が、書店に一冊だけ本棚の隅でホコリを被っりながら私を待っていてくれたので衝動で買った。
 本で学びながら、ベニア板でヨットを造り、進水させた。
 晴れてオーナー船長だ。小さなヨットだが、一国一城の主。誰にも行き先を命令され無いで済む、海族船の船長だ。
 道路のように緊急車両も来ない、信号も無い、中央分離帯も車線変更禁止ラインも無い・・・自由に気ままに、我侭に走っても誰からも文句は出ない。

「瀬戸内海の孤独」
 土曜日曜は殆ど一人でヨットに乗った。優良企業で活躍する仲間の事を思う時は、孤独な思いに苛まれたが、その苦悩を吐き捨てるように来る日も来る日もヨットに乗った。
 悪い事に、地元では、中庸と無難を好む気風があって、自分の計画に賛意を示し、背中を押してくれる人も居ないばかりか、自分の経験していない事、自分の出来ないことは、全て「悪い事」と仲間内に喧伝されていた。
 親類縁者も全員が反意。自分の母親にしても、大事に育てた一人息子を、大勢が反対する太平洋横断に、賛成するわけは無かった。しかし、母親には、時間を掛けてヨットの安全性を話し、成功した人のニュースや写真、雑誌記事の良い情報のみを話して洗脳していたから、少しは理解しようと努力はしてくれていた。
 そんな時、仲間の社会人としての現実問題が私を苦しめた。
 「結婚」と言う二文字に絡んで、仲間が一人二人と減って行った。
 酒の勢いとは言え「ヨット乗りなら、一度は太平洋を横断しようぜ」と意気投合した日々のあの話は何処へ行ったのだ。
 結婚して家庭を築き、社会の信用、社内の信頼を得つつある善良な社会人モードに切り替わった彼らを、もうこれ以上自分の理想の世界、自己満足な夢のために引っ張る事は出来なかった。
 危惧していた事が現実になって、自分一人になってしまった。
 大海に浮かぶ木の葉の様に決心がぐらついた。

「セメントでヨットを建造」
 気が付けば、仕事の面でも実務経験の十年が近づいていた。独立の条件が整ったところで、権利を保持したまま、一寸遊びたかった。   
 そろそろ、決行の時だと意識し始めた時、悲しいかな、太平洋横断に耐え得る肝心なヨットが無かった。 
 その頃、太平洋周辺を一周してきたヨットが姫路にあると聞いた。しかもコンクリートで作ったと言う。
 材料がセメントなら安く造れるだろう。やる気だけはあるが貧乏なこれは大きな魅力だ。そこで、姫路まで現物を見に行って納得した。
 間違いなく浮いていた。船内に一滴の海水も入って来なかった。しかも、大きくて居住性が良かった。決めた、これに決めた、コンクリートヨットに決めた。

「出航への序曲」
 命を掛けるのだから、設計図はニュージーランドのプロから買った。困った事に、建造指指導書は全部英文だった。翻訳を間違っても逆さまに走ることは無いだろう多寡をくくって造り始めた。
仕事はノルマ制だから自由に時間は取れた。雨の日も、風の日も、雪の日も真夏のかんかん照りにも負けず、コツコツと作り続けた。そのお陰で十五ケ月で完成し、福山港に進水させた。
 全国でも二例しかなく、勿論備後地方では初めての事だったので、マスコミ各社の報道で知った野次馬がある種の賭けの気持ちを秘めて大勢集まって来た。「ほんまに浮くんじゃろうか?」
進水後テストを兼ねて沖縄へ向けて航海に出たが、トラブル続きで途中の種子島、屋久島でUターンして、台風に追っかけられながら瀬戸内海へ逃げ帰った。その時判明した悪い箇所を改修した。
昭和五十年沖縄海洋博が開催された年、広島カープが初優勝した年の五月、一人で四国一周の最終試験航海に出た。買えば五十万円もする、風力で舵を取る自動舵とり装置は二万円ほどで自作した。途中で雨風に祟られて、一人身の苦労は身にしみた。
 その頃、既により小さなヨットで、とかより短い日数で・・とかの記録性作りには魅力が無くなっていた。
 大きなヨットで、楽しく、優雅に旅を楽しみたかった。従って、鈍重だが居住性の良いこのヨットには満足した。
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来週、その4(最終回)に続きます!