会社員として働いていた頃、いまから20年以上も前のこと、まだまだ何も知らなくて、世界がどのくらいの広さで、どんなふうに動いているのか、自分の可能性はどこまであるのかもわからず、限界とかは考えもせずに希望にあふれていた。


音楽の夢も大きく大きく妄想したこともあった。しかし、社会に出て触れる意識は良いものよりも悪いものが多いことも知る。


知るというか、そのときは本当にわからずに、鵜呑みにしていたこともあとから気付いたこと、あとから知ったことが多い。


愚痴をいう人間に囲まれたら、自分も人の悪口をいう人になっていく。


人に無関心で、薄情な人と毎日を過ごせば、自分もそうなっていく。


これは出会いに大きく自分の性格、生き方が影響してくるということだと思う。


当時、真面目な僕は(今はそんなに真面目でもない)、先輩や上司から言われたことを疑って受け止めることはできず、世の中を見下した考え方を植え付けられたように思う。弱い人間だった。


でも、会社を辞めるということは選択肢にはなく、このまま苦しむか、それとも死ぬかしか選べなかった。その人にとって、その世界が全てであるということは、いう側の人間には一切わからないだろうと思う。


一言で救える力を持っている人が、やさしいことばで励ますどころか、地獄に突き落とす。


それは保身。自分を守ることで精一杯で、周りを蹴落としてでも生き続けたい人、いや、そうするしかないと思ってる人なんだろうと思った。


そんな人にでも、親心や、愛する人を大切にする母性のような愛は存在する。その人も含め、全ての人が幸せになる権利を持っているし、そう願っていることを理解する。


命が危なくなったら逃げてもいい。

体が壊れそうになったら休んだらいい。

辛い時は誰かに助けを求めることだってできる。

声に出して、気持ちを届けたらいい。


何を真面目というのかわからないが、

例えどんな人だって、その人の毎日を脅かすようなことを面白がってしていい理由はない。


いじめる側からすれば、ほんの一瞬の悪ふざけが知らないが、いじめられる側はそれが全てで、苦しむ。


違いを個性と認められないのは器が小さいから。でも、何もかもが、余すことなく、出会いも起こったことも、殴られたり、罵声をあびたりしたことでさえも、その全てが糧になって、今の自分がある。


くらったものにしかわからない辛さが、寄り添って話を聞くことができる。


何よりも大きな財産だとおもう。



雄介



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