安倍晋三元総理の「国葬」に参列して思うこと | 藤原洋のコラム

~「道半ば」の「アベノミクス」への弔意を込めて~

 9月初旬に、安倍晋三元総理(1954年9月21日~2022年7月8日)「国葬」の招待状を受け取りました 。国葬の招待状を受けるのは初めてのことです。 戦後は、一般人の国葬は、吉田茂氏以来ということなので、初めてというのは当然のことかもしれませんが、私なりの弔意*(後述)を込めて参列させて頂きました。また、招待状と国葬儀場の写真も掲載させて頂きます。

 同い年で5日早く生まれた安倍晋三さんが急にこの世を去られたショックは、岸田文雄総理の決断を促し国葬となりました。

 私が、感じたことは、友人代表の菅義偉前総理の言葉に全てが含まれていました。自由・民主主義・人権を重んじるべき日本社会にあって、「無念」という感情だけが残りました。

 意見の違う人当然いるはずです。だからこそ意見をぶつけ合う仕組みが必要です。なのに、意見を封じることにエネルギーを使うこと、法律というルールを無視して反対意見を封じること、あってはならないことだと改めて思いました。

 とにかく、今回は、私と同い年であり、何度か交流もあったことから、まだ若いのにこの世を去ることになってしまった、故安倍晋三元総理の「国葬」に参列させて頂いた際に多くの思うところがありました。

●「国葬」とは?

 国が国家の儀式として、国費で行う葬儀のことです。しかし、明治維新後の大日本帝国憲法(1889年2月11日公布、1890年11月29日施行)下と、日本国憲法(1946年11月3日公布、1947年5月3日施行)下では、「国葬」の概念や対象者は大きく異なっています。

〇第二次世界大戦前の国葬
 1926年(大正15)従来の先例・慣例を法制化して国葬令が制定され、国葬は、法定上行われるものと、特旨によるものの2種とされたとのことです。

【法定上行われる「国葬」】
・主たる国葬対象者:天皇、太皇太后、皇太后、皇后の大喪儀と、皇太子、同妃、皇太孫、同妃、摂政たる親王、内親王、王、女王の喪儀(7歳未満の皇太子、皇太孫の死去は除く)とのことです。

【特旨による対象者】
 国家に大きな功労のあった者と、死に際してとくに勅旨のあった者の葬儀で、皇族も含まれていたそうです。
 国葬当日は廃朝で、官庁と学校は休み、歌舞音曲は停止または遠慮し、全国民は喪に服し、国葬を厳粛に送ることとされたとのことです。
 国葬は神道式で行われ、葬儀の事務は国の機関が担当したそうです。

【特旨により国葬が行われた方々(敬称略)】
 1878年(明治11)の大久保利通の準国葬以後、次の皇族8名、一般人12名だったようです。

岩倉具視(1883)、島津久光(1887)、三条実美(さねとみ)(1891)、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)(1895)、北白川宮能久(よしひさ)親王(1895)、毛利元徳(1896)、島津忠義(1897)、小松宮彰仁(あきひと)親王(1903)、伊藤博文(ひろぶみ)(1909)、有栖川宮威仁(たけひと)親王(1913)、大山巌(1916)、徳寿宮李太王煕(とくじゅのみやりたいおうき)(1919)、山県有朋(1922)、伏見宮貞愛(ふしみのみやさだなる)親王(1923)、松方正義(まさよし)(1924)、昌徳宮李王 (しょうとくのみやりおうせき)(1926)、東郷平八郎(1934)、西園寺公望(1940)、山本五十六(1943)、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王(1945)。

〇第二次大戦後の国葬
 「皇室典範」で天皇の大喪儀を定めている以外は、国葬の明文規定はないようです。

 1967年(昭和42)10月20日、元首相吉田茂の死去に際して、臨時閣議の決定によって、10月31日、日本武道館で戦後最初の国葬が行われました。

 1989年(平成1)2月24日、昭和天皇の大喪の礼が新宿御苑で行われました。

 このたびの安倍晋三元総理の「国葬」は、戦後三度目となります。また、一般人としては二度目となります。

●イギリスの国葬

 ちょうど時を同じくして、エリザベス2世(1926年4月21日~2022年9月8日)のは、原則的に王族だけですが、例外が2つありました。

〇最初の例外:アイザック・ニュートン(1643~1727年、物理学者・数学者:力学の法則、微分積分学の創始、万有引力の発見)
世界に対してイギリスの地位を高めた知の巨匠、1727年の国葬。

〇二つ目の例外:サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(1874~1965年、政治家、陸軍軍人、作家)
イギリスを第二次大戦の勝利に導いた首相。1965年の国葬。

●私なりの弔意*~「アベノミクス」との関わり~

 安倍さんと初めてお会いしたのは、小泉純一郎政権の副官房長官の時でした。その際、周りの人々に「必ず総理になる人」と言われ、その通りになりました。いわゆる政界のサラブレッドという雰囲気でした。

 その後、お会いしたのは、「美しい日本」を掲げられた第一次安倍政権が1年を経ないまま、その後も短期政権としての福田康夫政権、麻生太郎政権を経て、失速して下野された直後でした。この頃執筆した、私の著書『科学技術と企業家の精神』(2009年岩波書店)を謹呈したところ、とても丁寧な感想文を頂きました。
この頃の安倍氏の科学技術への関心の強さは、総合科学技術会議(その後、第2次安倍政権で2014年に総合科学技術・イノベーション会議に改名)へと繋がっていったと認識しております。
エピソードをお話すると、私が20代の頃、ご一緒に制御用コンピュータの開発プロジェクトを行った9年先輩の中西宏明氏(当時私は、制御用コンピュータの回路設計、中西さんはOS設計を担当、その後、日立の社長、会長、経団連会長、2021年6月27日逝去)と私とは、私が、ベンチャービジネスに移った後も、よく連絡を取り合っていました。中西さんは、総合科学技術会議の中心メンバーで、安倍さんのブレインでもあり、科学技術政策の中心的役割を担っており、Society5.0の提唱者でもありました。
この間、中西さんを通じて、安倍政権の科学技術政策には、関わりを持つことができたと思っております。
中西さんには、私の著書『日本創生戦略』(2018年PHP研究所)の帯に推薦を頂きましたが、Society5.0にも少し触れて欲しいというリクエストを頂き、あとがきに追記させて頂いた思い出があります。

 その次に、安倍さんとお会いしたのは第2次安倍政権発足後ですが、「アベノミクス」を掲げられて、私もビジネススクールで教えている立場でもあり、かなり熱心に研究しました。

 アベノミクスの3本の矢(異次元の金融緩和〔現在も継続中〕、13兆円の財政出動、成長戦略(民間投資を牽引する規制改革等)ですが、私は、科学技術を基本とした3本目の矢に大変強い関心を持って来ました。しかしながら、2本目までは放たれましたが、3本目の矢は、まだ途上だと思われます。

 結果的に株価は上がりましたが、所得は増えませんでした。その根本要因は、3本目の矢が「道半ば」であることだと思っています。「道半ば」なのは、実は、政府ではなく産業界なのではと思っております。

 成長とは、産業が成長することであって、政府に依存することではありません。ムーアの法則をはじめ技術革新は継続中であるため、古いルール(官の規制よりも業界規制が問題)を変えて、時代にあった新しいルールを創ることも含めて、政府依存から脱却して産業界主導、民主導の成長戦略を立案実行することかと思われます。アベノミクスの「道半ば」でこの世を去られた安倍さんへの弔いは、民による成長戦略の立案実行ではないかという思いで国葬に参列させて頂きました。

●おわりに

 まさかということがあったので、まさかの国葬になったように思えます。まさかというネガティブなことが二度と起こらないように、トップダウンとボトムアップと両面で日本を何とかしなければとポジティブに思い行動することが今の日本に求められていると感じた1日でした。

 国葬参列にあたり、午前10時半集合で終了は午後6時でした。

2022年9月28日
 代表取締役会長兼社長CEO
 藤原 洋