先日、妻と一緒にあるプレミア商品を買いにいったときのこと。
その商品を扱っているお店は「東京駅ビル内」にあることは「わかって」いた。
つまり、記憶に「確信」があった。
が、そのショップが、改札「内」にあるのか、それとも改札「外」にあるのかの確信はなかった。
つまり、その点の記憶は「曖昧」。
東京駅に着くまでの移動中、「記憶」を懸命に探った。
すると、何となく、改札「外」にあるような「気がしてきた。」
その根拠は、「前回購入した際の状況の記憶」から。
前回も確か「移動中に」購入したはず。
しかも自宅に帰るまでの移動中に・・・・。
「移動中」という状況がなぜ改札「外」の根拠になるかというと、
私は現在、自宅~東京駅間までの移動手段はJRとは別の私鉄ラインを使っているからだ。
JRを使った覚えはない。ましてや、わざわざ、入場券を買ってまでその商品を購入した記憶なんてない。
ということは、改札「外」に違いない。
いやきっとそうだ。
東京駅に着くまでの間に、お目当てのショップは改札「外」にあるという記憶に傾きつつあった。
妻にも、自信たっぷりに「外にあるよ。外、外・・。」と言っていた。
が、結果を言うと、改札「内」にそのショップはあった。
つまり、改札「外」にあるという記憶は間違っていたわけだ。
さて、今回のことでふと思ったのは、
「記憶というものは、案外、自分の都合の良いように改編しているんだろうな。」
ということ。
今回の場合だと、改札「内」にあるとすると、わざわざ「入場券」を購入しないといけないわけで、それは自分にとって都合が悪い。
「外」にあってくれるほうが断然都合がよいわけだ。
記憶を呼び起こす作業というのは、一見、客観的な事実を呼び起こす作業のように思える。
しかし実際には、「自分の都合というバイアス」がかなりかかっていると思う。
まあ、それが一概に悪いというわけでもなくて、そういうのが人間くささ、人間の魅力なのかもとも思う。
なんて、ふと思った一日だった。