2013 WBC侍JAPAN 松井稼頭央 | baseball rush(野球選手SNSまとめサイト)のブログ

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松井稼頭央
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松井 稼頭央 (松井 和夫) 東北楽天ゴールデンイーグルス #7
Matsui kazuo.jpg
2011年8月30日、こまちスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府東大阪市
生年月日 1975年10月23日(37歳)
身長
体重 177 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 遊撃手、二塁手
プロ入り 1993年 ドラフト3位
初出場 NPB / 1995年4月5日
MLB / 2004年4月6日
年俸 1億3,000万円(2013年)
経歴(括弧内は在籍年)

PL学園高等学校
西武ライオンズ (1994 - 2003)
ニューヨーク・メッツ (2004 - 2006)
コロラド・ロッキーズ (2006 - 2007)
ヒューストン・アストロズ (2008 - 2010)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2011 - )

国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
WBC 2013年
この表について[表示]

松井 稼頭央(まつい かずお、本名:松井 和夫(読み同じ)、1975年10月23日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(内野手)。

松井秀喜(2011年は松井宏次)と区別するため、日本のマスコミでの表記(2011年は球場のアナウンスも含める)は「松井稼」となっているが、リトル松井(あるときでは、リトルゴジラ)と呼ばれることもある。メッツ時代には、テレビ中継で Kaz Matsui と表記されたことがあり、アメリカ製のスポーツカードには Cazzo Matsui と表記されるものもある。

MLB EloRater において、メジャー歴代日本人野手では3位にランクインしている選手である[1]。
目次

1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 西武時代
1.3 メジャーリーグ時代
1.3.1 ニューヨーク・メッツ
1.3.2 コロラド・ロッキーズ
1.3.3 ヒューストン・アストロズ
1.4 楽天時代
2 選手としての特徴
2.1 打撃
2.1.1 スイッチヒッター転向
2.2 走塁
2.3 守備
2.4 故障
3 人物
3.1 身体能力
3.1.1 スポーツマンNo.1決定戦
3.2 日本代表
3.3 KAZUO's BURN!
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 年度別守備成績
4.3 タイトル
4.4 表彰
4.5 記録
4.6 背番号
4.7 国際大会出場歴
5 関連情報
5.1 テレビ出演
5.2 CM出演
6 脚注
6.1 注釈
6.2 参考文献
6.3 出典
7 関連項目
8 外部リンク

経歴 [編集]
プロ入り前 [編集]

大阪府東大阪市出身。

物心ついた頃からグローブを持っていたという[2]。幼稚園時代から野球漬けの毎日であった[3]。小学三年生の時に若江ジャイアンツ入団した[3]。後に西武ライオンズでチームメートとなる犬伏稔昌が若江ジャイアンツのエースであり、松井にとって憧れの大先輩であったという[4]。犬伏が卒業すると投手として試合に出してもらえるようになったが[5]、チームが所属していた地区は強豪揃いであり[5]、小学生時代は全国大会には出場できず[6]、中学生時代も決勝戦で敗れ、全国大会には出られなかった[7]。小学生時代からずっと悔しい思いをしてきたため、高校に入ったら絶対に甲子園に行ったると心に誓ったという[7]。

PL学園時代は投手として活躍し、1992年には春のセンバツにも出場。しかし、その陰では腕の疲労骨折など故障に悩まされ、エースナンバーを返上するなどの苦節も味わっている。一方で見せる抜群の身体能力と野球センスの高さはプロのスカウトから高い評価を受けた。

1993年のドラフト会議で西武ライオンズが3位指名で交渉権を獲得し、契約金5000万円、年俸450万円(金額は推定)で入団した[8]。背番号は「32」。
西武時代 [編集]

1994年、持ち前の強肩と俊足を評価され内野手に転向。高校時代にPL学園監督の中村順司から投手は9人目の野手だと教わり、当時は守備が得意だと思っていた。フィールディングもいいと言われ、送りバントされたら必ず走者を刺してやろうと狙っていたタイプだったが、野手としてプロ入り直後に自信を喪失したという[9]。イースタンリーグの試合ではとんでもない大暴投をいくつもしたといい、24失策を記録[9]。走塁も素人同然で、スライディングやヘッドスライディングの技術は皆無であり、どんなタイミングだと頭から帰ればいいのかもわからず、足がベースまで届かずにタッチアウトになったこともあったという[9]。スイッチヒッターにも転向し、当時の打撃コーチを務めていた谷沢健一によると、この年のキャンプで松井のバッティングを見たが、体がピッチャー方向へ突っ込んでどうしようもないスイングだったことから、谷沢が思いつきで「左で振ったことがあるか」と聞いたのがきっかけだったという[10]。右打席で突っ込むということは、右半身の力が左半身に比べて強すぎる可能性があることから、左打席では引く方の腕(つまり右腕)が大切だと考えたためである[10]。その後は松井の努力により、左打者の打ち方をみるみるうちに吸収していったという[10]。この年は一軍出場はなかった。

1995年、マウイキャンプの際、同じ遊撃手の奈良原浩の守備が溜息が出るほど上手であり、奈良原の動きを後ろからじっくり見て、なんとか少しでも近づけるように真似をさせてもらったと言い[11]、後に自著で「奈良原さんは僕の先生でもあった」と記した[12]。4月5日の近鉄バファローズ戦で一軍初出場[11]し、2日後の日本ハムファイターズ戦で代打で初打席に立ち、初打席、初安打、初打点を記録した[13]。その後試合に出る機会が少なく二軍に落ちる。10日間ほど試合に出たらすぐに一軍に上げてもらえるということだった。一度一軍ベンチ入りを経験すると一軍と二軍の差がはっきり見えたという。二軍ではだらだらおしゃべりしながら笑顔で練習している選手が多く、一軍は観衆に応援され張り詰めた空気の中みんな必死の形相で戦っており、緊張感が全然違い、もう二軍にはいたくないと本気で思ったという。その後すぐに一軍に上がり、西武時代はこれ以降一度も二軍に落ちなかった[14]。この年は69試合に出場。21盗塁(盗塁死は1)を記録した。

1996年、遊撃手のレギュラーを掴み、リーグ2位の50盗塁を記録。盗塁死は僅かに9だった。打率もリーグ9位となる.283を記録。日米野球では18打数10安打(打率.556)[15]と打ちまくった。この年のオフ、欠番となっていた石毛宏典の背番号「7」を継承する。

1997年、前半戦だけで39盗塁を記録し[16]、オールスターゲームでは1試合4盗塁の新記録を樹立しMVPを獲得[17]。オールスターのスピードガンコンテストでは球速149km/hを記録した[18]。優勝決定試合では同点本塁打を放った[16]。初めて打率を3割に乗せ(.309、リーグ4位)、62盗塁でパ・リーグ盗塁王になるなどリーグ優勝に貢献。62盗塁中三盗は二桁に上った[19]。パリーグにおいてシーズン60盗塁以上を記録したのは1983年の大石大二郎以来だった。日本シリーズでは第三戦で猛打賞を達成[20]するなど活躍し、敢闘賞を受賞した[20]。

1998年、6月26日からの福岡ダイエーホークス三連戦で連続猛打賞を達成[21]するなど、1試合3安打以上は21回記録[21]。また、6月28日のダイエー戦ではプロ野球史上4人目、パ・リーグ史上初の初回先頭打者ランニング本塁打を記録した[22]。2年連続となる盗塁王に輝き、打率もチームで唯一3割台に乗せ(.311、リーグ5位)、シーズンMVPも受賞した。小坂誠との盗塁王争いに関連して、故意のボーク疑惑が発生した。

1999年、それまで1、2番で起用されることが目立ったが、シーズン途中には3番に定着。7~8月に23試合連続安打[15]、9月には1試合3二塁打を記録[15]。シーズン通算では初の最多安打、そして3年連続となる盗塁王のタイトルを獲得。本塁打は自身初の二桁本塁打となる15本塁打を記録し、垣内哲也と並びチーム最多の本塁打を放った。打率はリーグ2位の.330を記録し、3位の城島健司(.306)に2分以上の大差をつけたが、イチロー(.343)には及ばず、首位打者獲得はならなかった。

2000年、1月12日にタレントの菊池美緒と結婚。シーズン序盤では1、2番での起用も目立ったが、それ以降は3番での起用が多く、一時は4番として起用されることもあった。打率は.322(リーグ5位)と前年より低下したものの、本塁打は自身初の20本超えとなる23本塁打(リーグ10位)を記録し、2年連続でチーム最多の本塁打を放った。6月7日の近鉄戦ではスイッチヒッターとしては松永浩美以来となるサイクル安打を達成[23]。またこの年、福岡ドームでの試合でバスターで本塁打を放つ離れ業を見せた。この年はイチローの日本最終年であり、最終試合に松井がイチローに挨拶に行ったところ、「あとは稼頭央に任せた」と言ってもらえたという[24]。

2001年、前年に続き主に3番で起用される。3月28日のオリックス戦の第2打席では1打席最多タイの18球を投じさせた[25]。オールスター第1戦では最優秀選手賞を受賞[25]。ラビットボール導入もありパリーグ全体の打撃成績が向上する中[注釈 1]、松井自身は打率は前年より低下(.308、リーグ9位)し、本塁打も前年より1本増となる24本(リーグ14位)に留まった。この年入団した アレックス・カブレラ、 スコット・マクレーンが松井を上回る本塁打数を記録したため、3年連続でのチーム最多の本塁打とはならなかった。翌年以降もカブレラに譲ることになる。通算1000本安打を歴代4位の速さで達成。またこの年、2リーグ制以降、20盗塁以上では史上初となるシーズン盗塁成功率100%を記録している(26盗塁)[26][注釈 2]。

2002年、開幕から1番に座った。前年から一転、新ストライクゾーン導入もありパリーグ全体の打撃成績が落ち込む中[注釈 3]、松井自身は2度月間MVPを受賞するなど好調で、5月にはパ・リーグ史上2人目となる2試合連続サヨナラ本塁打を記録し、6月にはスイッチヒッターとしては史上初となる5試合連続本塁打を記録。チームのマジック点灯がかかった8月16日の近鉄戦では、チームは3回表終了時点で近鉄に9点差を付けられたものの[27]、4回表に西武打線が松井の左翼前安打を始まりに7連打で逆転[27]。その後再び追いつかれるも7回裏に松井が決勝打となる本塁打を放ち大逆転劇に貢献した[27]。9月24日のオリックス戦では6回に中堅へ本塁打を放ち、パリーグ新記録となるシーズン82長打を達成[28]。最終的に1950年に小鶴誠が記録したシーズン85長打を上回り、日本プロ野球新記録となるシーズン88長打を記録した[28]。終盤には首位打者小笠原道大に1厘差に迫るなど、首位打者争いも演じた。最終的には首位打者小笠原道大に8厘差と迫る打率.332(リーグ3位)、本塁打は初めて30本超えとなる36本塁打(リーグ4位)、その内前述の2試合連続サヨナラ本塁打を含むサヨナラ本塁打3本(パ・リーグタイ記録)を記録した。シーズン36本塁打は一番打者としてプロ野球新記録であり[28]、遊撃手としてシーズン35本塁打[注釈 4]もパ・リーグタイ記録であった[28]。盗塁数はシーズン途中までリーグ最多の盗塁数を記録していたが、最終的には谷佳知に盗塁王のタイトルを譲った。しかしながら33盗塁を記録し、史上8人目、スイッチヒッターとしては史上初のトリプルスリーを成し遂げた。3年ぶりとなる最多安打のタイトルも獲得、リーグ優勝に大きく貢献した。シーズン終了後には日米野球にも出場し、打率.423、2本塁打、7打点と日米野球でも好成績を残した。

2003年、引き続き1番を任される。自身が初めてのスランプと評する[29]ほどの不振に陥った。33本塁打(リーグ4位)を放ち2年連続で30本以上を記録したものの、打率は.305(リーグ14位[注釈 5])であり、2002年の新ストライクゾーンから従来通りのゾーンに戻ったにも関わらず三振数が増加した。また、盗塁数13、盗塁成功率.565は1995年の一軍初出場以降自身シーズンワーストを記録。守備でも3年ぶりに守備率が.980を下回るなど走攻守に精彩を欠いた。1996年から2003年までの8年間で通算1143試合連続出場。また1997年から2003年の退団まで7年連続で打率3割、170安打以上、遊撃手としてベストナインに選ばれ続け、20世紀センチュリーベストナインにも選出された。

シーズン終了後にはアテネオリンピックのアジア予選に出場。オフにはFA権を行使し、11月17日にメジャー挑戦を表明。
メジャーリーグ時代 [編集]

(日付は全て現地時間)
ニューヨーク・メッツ [編集]

アーン・テレムを代理人とし、12月8日にニューヨーク・メッツとの契約合意を発表。10日に3年2010万ドル+出来高で正式契約した。背番号は「7」を希望するがホセ・レイエスが着けていたため断念。球団からは5番と、前年に新庄剛志が付けていた25番を提示され、「足して7になる」という理由で「25」を選択。契約にはニューヨーク・ヤンキース、ロサンゼルス・ドジャース、ロサンゼルス・エンゼルスを除くチームへのトレード拒否権が盛り込まれていた。

2004年、4月6日のアトランタ・ブレーブス戦(開幕戦)で、前年度に21勝を挙げたラス・オルティスからメジャー史上初となる開幕戦新人の初打席初球本塁打を記録した。監督のアート・ハウは「御伽話のようだ」とコメントしたほか、アトランタのトップ紙「ジャーナル・コンスティチューション」では「ブレーブスのために、日本でカズオ(松井稼頭央)をスカウティングしていたヤツはどこのどいつだ。裁判にかけてやりたい」と書かれた[30]。しかしその後は多くの怪我とともに打撃・守備ともに日本プロ野球時代からは信じられない程の大不振に陥った。そのため、シーズン途中に二塁手へコンバートされ、二塁を守っていたレイエスが本来の守備位置であった遊撃に戻される。成績の低迷はその後も続き、結局その二塁の座も守りきれず、シーズン終盤は控えに甘んじた。遊撃守備については失策数の多さが目立った(失策の多さはメッツの一塁手が守備に難のあるマイク・ピアッツァであったという背景もあった[31]。)。しかし、RFは高い数値を残していたことから、松井の守備が「大リーグ失格」と腐されるというのは不公平という意見もあった[32][注釈 6]。故障療養のため家族とともにフロリダに滞在中にはハリケーン・アイバンが直撃。球場にて避難生活を送った。

2005年、2月のキャンプ直前から視力回復のため、就寝中に高酸素透過性ハードコンタクトレンズをはめる最新治療を行ってきたが、コンタクトがずれて目に傷がつき、4月14日のヒューストン・アストロズ戦を欠場した。開幕戦のシンシナティ・レッズ戦で、前年に続き初打席で本塁打を放ち、2年連続開幕戦初打席初本塁打を記録。しかし5月と6月は打率.191と絶不調に陥り、6月16日のオークランド・アスレチックス戦では二塁上でジェイソン・ケンドールと交錯して故障者リスト入り。8月に復帰後はスタメンを外れるようになったが、打率.301、OPS.759と好調を保った。オフには西武の同僚だった熊澤とおると個人トレーナー契約を結び、打撃・守備などといった野球の全ての基本動作を確認する練習を行った。

2006年、スプリングトレーニングで右ひざを痛め、マイナーで開幕を迎える。メジャー昇格初戦となったサンディエゴ・パドレス戦の初打席では日本人初のランニングホームランを打ち、メジャー4人目となる3年連続シーズン初打席初本塁打を達成。しかし、打率は.200と低迷し、6月9日にイライ・マレーロとの交換トレードでコロラド・ロッキーズへ移籍した。
コロラド・ロッキーズ [編集]
ロッキーズ時代(2007年)

シーズン終盤から二塁手として先発出場し、32試合の出場ながら打率.345、2本塁打、19打点、8盗塁と好調を維持した。オフにはFAとなったが、150万ドルの単年契約を結び残留。オフには目のレーシック手術を受けた。また、自主トレではバリー・ボンズが声をかけてくれたのを機に、合同で打撃練習も行った[33]。ボンズは松井にいろいろなアドバイスをしてくれたという[33]。

2007年、腰痛で離脱し、5月15日に復帰した時点でチームは16勝23敗と大きく負け越していたが、松井が復帰してからは好調で、監督のクリント・ハードルは好調の原因を「我々は非常にエキサイティングなコンビネーション(「コンビネーション」は打順の1番と2番に定着したウィリー・タベラスと松井を指している[34])を擁している。2人が塁にいる時は、常にプレッシャーをかけ続けている。すべての選手が欲しているものだが、誰にも教えることはできないし、ごく一部の選手しか有していないものだ」と説明した[34]。タベラスは「いうまでもなく我々2人は最高のスピードを持っている。盗塁という武器があるから、投手は我々を出塁させたら常に意識しなければならなくなる。個人的にも僕の後を打つマツイがスイッチ打者というのも理想的だと思っている。あらゆる状況に対応できるからね。これからも2人で協力しながら、チームが勝つために頑張っていきたい」と語っている[34]。この年も故障やジェイミー・キャロルとの併用もあって規定打席には到達できなかったものの、中盤以降は二塁の定位置をほぼ手中にし、メジャーで自己最多となる32盗塁を記録(盗塁死4で成功率.889)するなど、持ち味である積極性が大いに発揮されたシーズンとなった。またタベラスが怪我で離脱すると、終盤には「1番・二塁」に定着。チームの終盤14勝1敗という驚異的な快進撃にトップバッターとして貢献。チームはワイルドカードによるプレーオフ進出を果たした。

ポストシーズンでは、10月4日のフィラデルフィア・フィリーズとのディビジョンシリーズ第2戦で逆転満塁本塁打を放つ。この日の開催地はフィラデルフィアでメッツ時代の松井を知っていたニューヨークの記者もいたのだが、松井自身は「今はコロラドにいるので、ニューヨークのことは話す必要がない」と試合後コメント。リーグチャンピオンシップシリーズではアリゾナ・ダイヤモンドバックスをスイープしリーグ優勝を果たす。ワールドシリーズでは元チームメートの松坂大輔や岡島秀樹が所属するボストン・レッドソックスとの対決となり、岡島登板時に打席が回り、日本人同士の直接対決が初めて実現した(結果は空振り三振)。第三戦には松坂大輔とも対戦し、初回に二塁打を放った。チームは第4戦で敗れたが、ポストシーズンでは打率.304、OPS.847の好成績を残した。オフにはFAとなり、12月2日にヒューストン・アストロズと3年1650万ドル(契約金150万ドル含む。年俸は2010年まで毎年500万ドル)で契約。
ヒューストン・アストロズ [編集]
アストロズ時代(2010年)

2008年、開幕直前に臀部の手術により戦線離脱していたが、松井の復帰後チーム打撃成績は著しく上昇した[35]。松井自身は他の打者の打撃にまで影響を与えることに関して「自分で(チームの)流れを変えられるなんて思っていない。自分は2番としての役割をしたいと思っているだけですから。回りの人がどう思うか知らないけど、そういう風に思うこと自体がどうかなと思う。自分はできる範囲のことをやっているだけですから」と否定した[35]が、監督のセシル・クーパーは「マツイが復帰してチームに最高のスパークをもたらしてくれた」と語り[36]、ランス・バークマンは「マツイが打線に加わり、攻撃にリズムが生まれた」と語った[36]。

アストロズと契約を交わした際、アメリカの主要メディアの反応はネガティブで[37]、ラインドライブヒッターに有利なクアーズ・フィールド(前年所属していたロッキーズの本拠地)では好成績を残せるが、ヒューストンではメッツ時代のようになるという予測が支配的であったが[37]、2008年の働きは予測を見事に覆すものだった[37]。パークファクター補正が入る打撃指標のwRC+、OPS+ではそれぞれ日本人内野手としては歴代最高の109[38]、107[39]と二塁手ながら平均を上回り、ホーム打率.289[37]、アウェー打率.297[37]と球場に関係なく成績を残した(シーズン打率は.293)。また、逆方向に長打が量産出来るようになり[37]、本拠地のミニッツ・メイド・パークで打った二塁打は、左打席でレフト方向に運んだものが大半だった[37]。病気や故障に悩まされ[37]、100パーセントの状態でプレーできたゲームは皆無と言っていいにも関わらず走攻守すべてでハイレベルな活躍を見せた[37]。

2009年、5月20日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で、セシル・クーパーは松井を2番に据えたと思ったが、実際に登録されたスタメンでは松井を1番に据えた。その後、登録上は2番のマイケル・ボーンが1番の打席に立ってしまったため、松井は打席に立つ前にアウトになる珍事があった。8月15日のブルワーズ戦で、日本人野手としてはイチロー・松井秀喜に続き3人目となる日米通算2000本安打(日本1433、米国567)を達成。試合を観戦していた西武時代の監督である東尾修より、日本プロ野球名球会のブレザーを授与された。この年はメジャー移籍後2度目となる規定打席到達を果たし、出場試合数・本塁打・打点で自己ベストを記録したが、一方で打率.250・出塁率.302はそれぞれリーグワースト5位・4位に終わった。それでも、得点圏打率は.323であり、得点圏OPS.952は日本人最高値(歴代でもシーズン記録としては日本人2位)、特に満塁の場面では8打数5安打10打点であった。オフにはコンディショニングを万全に整え、打率.250に終わった打撃を見直すためバットを振り続けた[40]。

2010年、スプリングトレーニングでは打率.293、2本塁打、OPS.844と好調で、開幕戦では2安打を放った[40]。だが翌日の試合では先発を外れる(監督のブラッド・ミルズによると「第3戦のデーゲームに備えさせるため」だったが、他の主力選手は当然のように開幕3連戦に先発していた[40]。)など、開幕5戦目までの3試合で松井は先発を外れた[40]。ミルズ監督は「ケッピンジャー(ジェフ・ケッピンジャー)のバットが振れているので先発から外せない」と説明した[40]。松井の先発機会はケッピンジャーが休養で欠場するか、ショートに回った時だけに限られた[41]。本人に前触れすらないまま突然先発から外されてしまったのは松井にとって初めての経験だった[41]。起用法についての説明すら受けたことがなかったという[40]。打撃コーチのショーン・ベリーは「技術的に大きな問題はない。今まで毎日試合でプレーしてきたが、今年は出場機会が制限され、その役割に順応できていないのだと思う。また練習熱心過ぎる真面目さが、結果が出ないことで自分を追い込んでしまっているようだ」と発言したが、直後に解雇される[41]。26日にコロラド・ロッキーズとマイナー契約を結び、傘下のAAA級コロラドスプリングスでプレー。メジャー昇格を目指すものの、昇格することなくシーズンを終えてFAとなり、代理人のアーン・テレムとの契約も解除した[42]。
楽天時代 [編集]

11月25日に東北楽天ゴールデンイーグルスと総額3億円の2年契約を結び[43][44]、29日に仙台市内で入団会見を行った。背番号は「初心に返る」という本人の希望で西武入団時と同じ「32」。

2011年、7月までは打率.235、4本塁打、OPS.618と不振にあえいでいたが、8月には26試合で打率.333、3本塁打、14打点、OPS.852の活躍で、自身5度目の月間MVPに輝いた。当初はクリーンナップでの起用がよく見られたが、後半からは1番に定着。好不調の波が激しく、打率.260、9本塁打(チーム2位)、48打点(チームトップタイ)、OPS.675(チーム2位)、15盗塁(チーム3位)とチーム内では上位の成績を残しながらも西武時代と比較すると、衰えは隠せなかった。しかし、二塁打34本はリーグトップ、盗塁も企画数自体は少なかったものの成功率は8割以上を記録した。シーズンオフには退団した山崎武司の後を受けて、背番号が西武、ロッキーズ時代に着けていた「7」へと変更された[45]。

2012年、2月3日に東北楽天ゴールデンイーグルス2代目主将に指名された。だが腰痛を発症して開幕から出遅れると、前半戦は右手首痛などによる離脱が重なり、6月、7月には16試合連続安打を記録するも、その後眩暈で再離脱となり、復帰後の8月には月間打率.174という大不振に陥るなどした。しかし9月には24試合で月間打率.361、35安打、3本塁打、23得点、13打点、OPS.918を記録し(得点と安打数は全選手トップ)、10月も月間打率.290と好調を維持し続け、最終的に昨年を上回る打率.266、OPS.720を記録した。前述の怪我や眩暈などの影響もあり、シーズン規定打席未到達[注釈 7]であったが、106試合に出場し、チームトップタイの9本塁打、チーム2位の14盗塁を記録し、前年に続き盗塁成功率は8割を上回った他、シーズンサヨナラヒットを3本、内1本はサヨナラホームランを記録した。また、10月5日の日本ハム戦にて、日米通算200本塁打を達成。そして後述のパフォーマンス「BURN!」をチーム内外に広める事となった。
選手としての特徴 [編集]

西武時代は俊足、巧打、長打、強肩、守備を持つ、いわゆる5ツールプレイヤーとして評価され、最強の一番打者とも称された[46]。『江川卓・スカウティングレポート2000』では、PERFORMANCEの3つの項目(「打力(Hitting)」、「守備力(Fielding)」、「走力(Running)」)で、10段階中Fielding、Runningが10、Hittingが9という評価が付いている[47]。
打撃 [編集]

プロ入り当初は出塁率を求めるためボールに合わせる打撃だったが、フルスイングすることを重視し長打力が開花[18]。2001年の打撃成績に満足できず、それ以来長打力を増すためにいろんな研究をし、試したという[48]。バットを寝かせず、ヘッドを入れないようにしたのがその一つであり、内角球に差し込まれることが減り、球をミートする確率も高くなり、軸も定まって飛距離が増したという[49]。広角に打球を打ち分けることができ、スイングはやや大きいもののバットコントロールが良く、2007年にはバットスピードを向上させたことでコンタクト能力が向上した[50]。
スイッチヒッター転向 [編集]

2年目に谷沢健一から遊びでいいからと左打ちを試したのがきっかけだが、当初は右でもろくに打てず、左打ちを試す余裕は全くなく、左打ちを封印してしまった時期もある[51]。右打ち、守備、走塁をスキルアップさせ、レギュラーに定着してからでないと左で打つのはよそう考えていたためであり、監督を務めていた東尾修もどっちで打ってもいいと言ってくれたため、その当時は右投手相手でも右で打っていた[52]。左だとボールに当てにいってしまい、ドン詰まりも多く、内角球に対する恐怖心も残っており、右に頼っていたという[52]。しかし試合で出塁した際に、小久保裕紀がベース上ではなしかけてくれ、アドバイスももらい、そこから右投手のときは左でいきますと東尾に告げ、中途半端な気持ちを一切捨てたという[52]。最初は左打席が二割そこそこであったため、毎日特打した[52]。高橋慶彦にアドバイスをもらおうと話を聞きにいったこともあり、高橋に「ボールを上からたたけ」と教えてもらい、それから強い打球が出るようになったことを鮮明に覚えているという[52]。そのように必死にチャレンジし、左打席に臨むようになると打率が上がりはじめ、転向した年の9月には初めて月間MVPを受賞した[52]。
走塁 [編集]

一塁到達まで全盛期で3.73秒[53]、メジャー移籍後も4.0秒を記録した俊足を誇り[50]、塁上の飢えた狼[54]、盗塁を心理劇からミュージカルに変貌させる男[55]とも評された。「盗塁にはホームランを打ったぐらいの価値がある」と言い盗塁への関心が特に高く[18]、「数多く走るのではない、成功すること。そうでないと走るべきではないです。」と語り[55]、NPB通算83.6パーセントと盗塁成功率が高く、2001年にはシーズン盗塁成功率100パーセントを記録した(26盗塁)。3度の盗塁王に輝いているが、一番満足したシーズンは2001年だという[26]。メジャー移籍後も2010年まで通算85パーセントと高い成功率を記録している。
守備 [編集]

守備範囲の広さ、肩の強さなど高い身体能力を活かした守備を見せる[18][56]。特に肩の強さに定評があり、西武時代に監督を務めていた東尾修は「そのままピッチャーをやっていても1イニングくらいは抑えられたんじゃないか。マックスで150km/hは超えていた」と語り、同じくコーチを務めていた須藤豊は「あんな肩、見たことがなかった。巨人でコーチしていた頃は河埜和正が強肩の遊撃手と呼ばれていたが比べものにならなかった。まるでメジャーリーガーのよう」と語った[56]。前述の通り、スピードガンコンテストでは球速149km/hを記録したことがあり[18]、西武第二球場でホームベース付近から中堅方向に向けての遠投を行った際にはボールがバックスクリーンを越える大遠投を披露したことがある[18]。一方でプロ入り当初はフィールディングには難があったため、須藤と共に遊撃手としてのグラブの動きを練習し、小坂誠の動きを手本にしながらフィールディングを磨いていったという[56]。プロに入り後に遊撃手に転向したが、ポジショニングや捕球、送球と守備のすべてをゼロから学び、そこからゴールデングラブ賞を4度獲得するまでの道のりは決して平坦ではなかった[57]。4度のゴールデングラブ賞は才能ではなく練習の積み重ねによるものと自著で記している[58]。通常は二塁手が中継に入るライトからの返球を、西武に限っては松井が代わって行ったり(これは当時の二塁手でもあった辻発彦の肩の衰えによる影響もあった)、三遊間の深いゴロを一塁にノーステップで送球してアウトにするプレーも多かった[18]。

しかし、上記のように日本人選手ではトップクラスと言われていた遊撃手としての肩の強さがメジャーでは平均以下だったこと(西武時代からメジャーのスカウトより肩の強さはメジャーの遊撃手としては平均的と評されていた[59][60])[50]、加えて人工芝でプレーした時期が長かったためか人工芝特有の「打球を待って捕る癖」などが足かせとなり天然芝での守備に適応できず[50]、メジャー移籍後は二塁手にコンバートされるも、二塁守備はロッキーズ移籍後の2007年にはゴールドグラブレベルと評価されるまでとなった[61]。特に一二塁間の打球に強く[50]、2007年にはシーズン4失策で守備率.992は二塁手リーグトップ、DRSは同3位、UZRは二塁手メジャー2位を記録するなど数々の守備指標でも高い数値を残した。2008年も高い評価をする向きがあり[62]、2009年にも「ファンが選ぶ最優秀守備選手」の候補に名を連ね、ダブルプレー達成数リーグ2位を記録するなど高い評価を得ていたものの[63]、DRSとUZRでは平均かそれ以下の数字を喫し[64]、メジャー通算では二塁手としてDRS2、UZR5.8、遊撃手としてDRS-7、UZR-12.6の数値を残した[64]。
故障 [編集]

小学生時代から多くの怪我に見舞われており[65]、PL学園時代の思い出は試合より怪我とどう闘ったかしか思い出せないくらいだという[66]。高校時代に怪我で出場機会に恵まれなかったことが試合を休んでレギュラーを譲ってはいけないという教訓になっているといい[67]、シーズン全試合出場に拘り[67]、怪我や体調不良があっても試合を休まず[67]、1996年から西武最終年の2003年まで全試合出場を続けた[67]。その間に怪我が無かったわけではなく、ぎっくり腰の状態で打席に立ったこともある[68]。監督の東尾は立ってるだけでいいからと打席へ送り出してくれたという[68](しかし松井は思い切りスイングした[68]。)。西武時代晩年には腰痛等の影響で指名打者での出場もあり、本塁打を打った際に足を引き摺りながらベースランニングするといった光景も見られた。

メジャーリーグ移籍後は幾度となく怪我で離脱を経験。日米通算2000本安打を達成した頃には故障者リスト入りが実に9度にも及んだ[69]。楽天移籍後は2011年は139試合に出場したが、2012年は1月13日の練習公開時に報道陣から渡された色紙に「144試合出場」と今季への意気込みを書き入れた[70]ものの106試合の出場に留まった。
人物 [編集]
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1995年に本名から変更した登録名の『稼頭央』には「中央で先頭に立ち、活躍する」という意味が込められている[18][71]。

夫人は元タレントの菊池美緒で、2人の子供をもうけている。夫人のはとこには五十嵐隼士がいる。

ロッキーズでチームメイトだったトッド・ヘルトンとは1995年のシーズンオフに開かれたハワイ・ウィンタートレーニングのマウイ・スティングレイズでも共にプレーしたチームメイト。ヘルトンは、会話こそしなかったが松井の守備(ピッチングも含める)に強い印象を受けたと語っている。なお、ヘルトン自身は前記の通り、会話はなかったと言っており既に忘れている事のようだが、松井本人はアクシデントで急遽マウンドに上がり相手チームから三者三振を奪い、興奮して挑発的な仕草をした直後にヘルトンから「デッドボールの報復があるから、やめておけ」とたしなめられた事を覚えていた[72]。またロッキーズのヘッド・トレーナー、キース・ダガーも同チームに帯同していた。

バスケットボールが好きである[73]。オフに自主トレに加える形でバスケットボールやテニスをするという[74]。もし野球をやっていなかったら、バスケの選手を目指していたでしょうと語っている[74]。

ブルース・リーが好きである[75]。小学三年生の時は野球とかけもちで少林寺拳法を習っていた[75]。
身体能力 [編集]

身体能力の高さは周囲の誰もが一目置いており[76]、かつて高木大成は「今のプロ野球選手で、自主トレしなくてもキャンプに入れるのは、稼頭央しかいないでしょう」と語っていた[76]が、高山久が自主トレの「松井稼塾」に参加した際には、高山はあまりのハードさにパンクしてしまったというほど実際はハードな自主トレを積んでいるという[76]。

2009年に長嶋茂雄ドリームプロジェクト2009に参加した際、握力測定で出場選手中一番の77.3キロを記録した[77]。

バレーボールを使用すればダンクシュートができる。ジャンプは足りているものの片手でバスケットボールがつかめず、バレーボールで試みるとうまくいったという[73]。
スポーツマンNo.1決定戦 [編集]

1997年の『最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦』に出演。膝の怪我をしていた高木大成の代役での出場だった[78]。DASH、SHOT-GUN-TOUCHといったスピード系の種目でNo.1を獲得し、総合でもNo.1を獲得。SHOT-GUN-TOUCHでは、当時世界新記録となる12m70cmを成功させ、その後12m80cm、12m90cm、更に13m00cmも成功させ、史上初の13m台の成功者となった。1998年大会では再びDASHでNo.1となり、総合では3位となる。1999年大会ではBEACH FLAGSでNo.1に輝く。POWER FORCEでは1998年のJリーグMVPに輝いた中山雅史とのMVP対決が実現し、見事に勝利した。その後決勝まで進出するが、高田延彦に敗れ、2位に終わる。その他THIRTY3位に輝くなどの活躍をみせ、残り2種目残して暫定1位であったが、残り2種目欠場し、総合8位に終わる(計4種目欠場)。2000年大会ではWORK OUT GUYS(総合ポイントには加算されないSP競技)ではケイン・コスギと同組になり、丸太切りで僅かにケインに出遅れるもトラック引き前には僅かにリード。しかしトラックのロープを身にかけるのにやや時間を要し、最終的にケインに後れを取った。タイムは暫定1位だった井口忠仁のタイムを上回り、ケインに次ぐ暫定2位の好タイムだった。最終的にフランシスコ・フィリォ、ケイン、ニコラス・ペタスに次ぐ第4位のタイムだった。WORK OUT GUYS以外では最終2種目のみの出場となったため、総合No.1争いには絡まなかったものの、前回参加しなかったパワー系種目、THE GALLON THROWで当時歴代2位となる6m00cmを記録し、No.1に輝いた。2001年以降は出場していない。
日本代表 [編集]

小学生時代から高校生時代まで日本代表に選出されたことは無く、日本代表に選ばれたのはアテネオリンピックの予選時が最初である[79]。日の丸がついたユニフォームへの憧れを強く抱いていたといい[79]、日本代表のユニフォームに袖を通した時には、胸に何か熱いものが去来したという[80]。

ワールド・ベースボール・クラシックには、NPB側から第2回WBC日本代表に協力を求める連絡が何度かあり、松井も「喜んで協力します」と答え、協力する姿勢を見せていた。代表候補に選ばれたが、落選した。監督の原辰徳から送られた手紙には落選理由も選考の説明も何もなかったため、松井の所属事務所が激怒する一幕があった。 第3回WBC日本代表では代表に選ばれた。
KAZUO's BURN! [編集]

楽天移籍後から「BURN!」(バーン)というパフォーマンスを行なっている。メジャーリーグ時代のチームメイト、ミゲル・テハダが行っていたという動きで、右手でハイタッチをしようとして、そこから後ろに手を引くという動きのパフォーマンスである。主に適時打を放った時に塁上で行い、2012年には他の楽天の打者の多くが真似をしだした。名称は公募で「BURN!」に決定。得点が入るとファンも動きに合わせ「BURN!」と叫ぶようになった[81]。

※ウィキペディアより抜粋

2013WBC Tシャツ発売予約開始

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