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鳥谷 敬 阪神タイガース #1
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基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都東村山市
生年月日 1981年6月26日(31歳)
身長
体重 180 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 遊撃手、三塁手
プロ入り 2003年 自由獲得枠
初出場 2004年4月2日
年俸 2億8,000万円(2013年)
経歴(括弧内は在籍年)
聖望学園高等学校
早稲田大学
阪神タイガース (2004 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
WBC 2013年
この表について[表示]
鳥谷 敬(とりたに たかし、1981年6月26日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。
2010年と2011年の阪神選手会長を務め、2012年から野手キャプテンを務める。
目次
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 選手としての特徴
2.1 打撃
2.2 守備・走塁
2.3 評価
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 年度別守備成績
3.3 タイトル
3.4 表彰
3.5 記録
3.6 背番号
3.7 登場曲
4 関連情報
4.1 CM出演
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
経歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
東京都東村山市生まれ。3兄弟の長男で、3歳年下の弟の司は聖望学園高校・東京農業大学を経て社会人野球のヤマハに所属していた(現在は、同部のマネージャー)。
白梅女子短期大学付属幼稚園、東村山市立八坂小学校から羽村市へ移住。羽村市立小作台小学校に転校。小学生時は東村山ジュニアメッツ、小作台少年野球クラブに所属し、野球の他に柔道もやっていた。元々は左利きで右利きに矯正されたため小学校の途中まで右打ちだったが、左手に箸を持ち弁当を食べていたのを見た監督から「左で打ったほうがいい」と言われたのがきっかけで左打ちに転向した。羽村第一中学校時代は西東京支部の名門である瑞穂シニアに所属。近年は関東優勝、全国も出場している。
聖望学園高校では3年夏に遊撃手兼投手として第81回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦の日田林工高校戦ではリリーフとして登板し、最速143 km/hを計測したが敗退。
高校卒業後は早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に進学し、遊撃手に専念。後藤武敏と並んで東京六大学野球連盟史上最速タイとなる2年春での三冠王を達成し、4年春には当時のリーグ記録となる19四死球を記録。4年秋には2度目の首位打者を獲得し、ベストナインにも通算5度選出された。主に3番を打ち、同期の青木宣親・比嘉寿光・由田慎太郎らと共に中心選手としてリーグ戦4連覇に貢献。大学通算96試合出場、345打数115安打、打率.333、11本塁打、71打点。卒業論文テーマは『打撃動作における下肢の筋電図解析』[1]。走攻守揃った大型遊撃手として読売ジャイアンツ、西武ライオンズ、横浜ベイスターズとの間での争奪戦の末、2003年のドラフト自由獲得枠で阪神に入団。
プロ入り後 [編集]
2004年は大物ルーキーとしてキャンプ・オープン戦から注目され、藤本敦士とのポジション争いも話題となった。7番遊撃手で開幕スタメンに選ばれプロ初安打を放ったが、その後は結果を出せず、開幕5試合でスタメンを外され、6試合目からは藤本が正遊撃手となり、主に代打や三塁手として出場機会が限られたシーズン前半は77打数13安打、打率.169とプロの壁に苦しんだ。藤本がアテネオリンピック野球日本代表としてチームを離れた8月と藤本が不振に陥った9月中旬からシーズン終了までは再び遊撃手として先発出場する機会を得て、シーズン後半は158打数46安打、打率.291と持ち直し、プロ1年目の最終成績は打率.251、3本塁打、17打点であった。
2005年は藤本が二塁手にコンバートされ、開幕から遊撃手として全試合出場。2番を打っていた藤本と関本健太郎の打撃不振によりセ・パ交流戦以降は2番打者に定着。打率.278、9本塁打、52打点の成績を残し、サヨナラ本塁打を2本放つなどチームの優勝に貢献。自身初のオールスター出場、日本シリーズ出場も果たした。4月27日の対中日ドラゴンズ戦ではチームメイトの橋本健太郎がプロ初勝利を挙げたが、ウイニングボールをスタンドに投げ込んでしまった。オフには高校の1年先輩で野球部マネージャーだった女性と結婚。夏には赤星憲広ら3選手と共に六本木の飲食店にいたところ、たまたま居合わせた市川海老蔵から腕相撲を挑まれ、最初に絡まれた赤星が勝負に出ようとしたが、鳥谷が赤星の代わりに自ら勝負を申し受け、一瞬にして海老蔵に勝ったという[2]。
2006年シーズン前半は主に7番遊撃手、シーズン後半は6番遊撃手として全試合フルイニング出場。6月1日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で愛敬尚史から逆転2ラン本塁打、2日の対福岡ソフトバンクホークス戦では斉藤和巳からソロ本塁打とタイムリー二塁打、3日の対ソフトバンク戦では藤岡好明からサヨナラ安打を放ち、3日連続でお立ち台に立った。ファン投票選出で2年連続のオールスター出場。9月前半まで打率3割台を維持するも、シーズン最終盤に成績を落とし、最終成績は打率.289、15本塁打、58打点だった。9月に長男が誕生。
2007年は赤星憲広に代わり主に1番打者として全試合出場したが好不調の差が激しく、打率.273、10本塁打、43打点と打撃成績が前年よりも落ち込んだ。7月24日の対中日戦で遊撃手として340試合連続フルイニング出場のプロ野球記録を樹立し、9月28日の398試合まで記録を伸ばしたが、その数日前に受けた死球の影響で翌29日に途中交代した。同年オフにレーシック手術を受け視力が回復した[3]。
2008年は開幕から6番遊撃手として出場。シーズン前半は3割を超える打率で、勝負強さも見せた。夏場に新井貴浩が離脱した際には3番や5番に入ったが調子を落とした。不調だった今岡誠が9月に復帰した後は再び6番に戻り、打率.281、13本塁打、自己最多の80打点を記録。10月19日のクライマックスシリーズ対中日戦では1試合2本塁打を放った。守備では簡易RF5.13を記録し、1992年の野村謙二郎以来リーグ16年ぶりの5点台を達成するなど、圧倒的な守備指標を叩き出したが、ゴールデングラブ賞受賞はならず波紋を呼んだ[4]。同年は自身2度目の全試合フルイニング出場も達成してベストナインを初受賞。9月13日に次男が誕生。
2009年は開幕から3番遊撃手として出場。4月終了時点で90打数30安打14打点と好調だったが、5月に不調に陥り、打順も7番に降格し、チャンスで代打を送られるなど苦しんだ。シーズン後半は完全復調して打順も3番に戻り、打率.288、自身初の20本塁打、75打点を記録。安打、得点、打率、長打率、OPSはチーム1位。守備でも遊撃手としてリーグトップの守備率.990を記録した。これは平田勝男が1986年に記録した.988を上回る球団記録でもあった。11月26日、引退した赤星の後継としてチーム選手会長に就任した。
2010年も開幕から3番遊撃手として出場。5月にマット・マートンと交錯し腰椎を骨折した後、成績を落とし、4試合スタメン離脱。6月から7月まで1番打者を務め、3番に戻った8月から一気に調子を上げ、赤星の持っていた球団月間安打記録を更新する43安打を放つなど、月間打率.422、OPS1.151の活躍で月間MVPを初受賞した。10月2日の対広島東洋カープ戦で、遊撃手としてプロ野球史上初となるシーズン100打点を記録[5]。10月5日の対東京ヤクルトスワローズ戦でプロ通算1,000本安打を達成。シーズンを通して打率.301、19本塁打、104打点と自己最高の成績を残し、リーグトップの得点圏打率.360、満塁打率.500を記録するなど勝負強さも見せた。また、7月20日の対広島戦で球団史上初となる「延長戦での逆転サヨナラホームラン」を放っている。2年ぶり2度目のベストナインを受賞。6月4日、選手会長として総務省近畿総合通信局から「地デジカ応援隊」タイガース隊隊長に任命された。7月2日に長女が誕生。
2009年10月に兵庫県芦屋市の不動産業者の仲介で9,300万円で購入した西宮市内のマンションについて、購入申込書に仲介手数料の支払い条項が書かれていたと当該の不動産業者が主張して神戸地方裁判所尼崎支部に訴訟を提起されていた問題について、鳥谷側は「申込書には押印していないし、仲介報酬に関する話も聞いていない」などと主張していたが、2011年1月21日に不動産業者側の訴えを認める形で、同支部から100万円の支払いを命じる判決を言い渡された[6]。
2011年、開幕から3番遊撃手として出場。5月15日の対中日戦で打球処理の際に右手人さし指の爪を裂傷し途中交代。翌週から始まったセ・パ交流戦では遊撃守備を上本博紀に譲り、5月28日に守備復帰するまで指名打者や代打で出場した。5月22日の対西武戦で通算1,000試合出場を達成。この年に導入された統一球の影響もあり本塁打、打点は前年の半分以下に落ちたものの、2年連続の打率3割越え(打率.300・リーグ4位)を記録し、OPSはリーグ3位、RC27はリーグ2位をマークするなど、傑出度では過去最高の成績だった。また三塁打7、四球78、出塁率.395はいずれもリーグトップで、自身初のタイトルとなる最高出塁率を獲得した。上述の怪我で守備ができない時期もあったが、3年連続失策一桁台、自身の持つ球団記録を更新する守備率.991を記録して、念願のゴールデングラブ賞を初受賞、2年連続3度目となるベストナインも受賞した。9月3日に国内FA権を取得したが行使せず残留。
2012年、この年から制定した野手主将に選ばれる(投手主将は藤川球児)。シーズンでは阪神で唯一全試合出場を果たした。成績は打率.262、8本塁打、59打点と昨年より大きく打率を落としたが、自身最高の94四球を記録し高い出塁率は維持した。8月には海外FA権を取得したが昨年同様行使せず残留した。
2013年、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表最終メンバーの28人に残った。ここでは、本職の遊撃は坂本勇人が守るため、日本代表の二塁手や三塁手として練習を重ねている。ライバルとして、松井稼頭央や本多雄一、井端弘和がいる。
選手としての特徴 [編集]
2005年から全試合連続出場中で(試合出場記録を継続している選手では最多記録)、遊撃手としての連続フルイニング出場日本記録(398試合)を保持している。
打撃 [編集]
広角に打ち分ける技術を持ち、2009年は20本塁打のうち左方向へ3本、中方向が1本だったが、2010年は19本塁打のうち左方向へ7本、中方向が3本と左中間で半分以上を占めた[7]。2010年には遊撃手として日本記録となるシーズン104打点を記録し、2009年から2011年までの通算得点圏打率.332と勝負強さを備えており、犠飛も2008年以降から増えている。選球眼に優れていて四球が多く、2011年にはリーグ最多の78四球を選び、リーグ最高出塁率をマーク。BB/Kは1.08でリーグ2位、PA/BBは7.56でリーグ3位だった。2006年から2011年までの通算の対右打率.300に対し対左打率.268と左投手を苦手とし、特に左投手の落ちる球を苦手としている[8]。
守備・走塁 [編集]
高校時代には投手として140km/h台を記録した強肩を備え、プロ入り後初めてブルペンで投げた2012年の春季キャンプでは134km/hを記録した[9]。守備では派手なプレーは少ないものの、強肩を活かし三遊間の打球に強く[10]、レンジファクターは高い[11][12]。2006年には490補殺でセ・リーグのシーズン記録、2008年にはリーグ16年ぶりの5点台となる簡易RF5.13を記録し、2010年には両リーグ2位のUZR11.7を記録するなど優れた守備指標を残している[13]。2009年から就任した久慈照嘉守備コーチの指導の下、安定性を増して、守備率も向上させ[14]、2011年には人工芝以外の内野土や内野天然芝のグラウンドを本拠地とする遊撃手としては日本プロ野球史上最高となる守備率.991を記録した。
走塁面では一塁到達は4.17秒と左打者としては平均的で[7]、内野安打は多くない。2010年から盗塁数を増やし成功率も高くなったが、通算では66%と低い。
評価 [編集]
北海道日本ハムファイターズの監督を務めたトレイ・ヒルマンは日本球界のベストショートに選んだほか[15]、セイバーメトリクスの評論家からの評価も高い[10]。また右肩の状態が思わしくない左翼手の金本知憲をカバーするなどの「ショフト(ショート+レフトを合わせた名称)」と称される献身的な動きは、阪神の監督を務めた真弓明信や阪神ファンとして知られるお笑いタレントの遠藤章造などから賞賛されている[16][17]。
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