この日、初対面の西郷隆盛と橋本左内は向かい合って座っていた。
「実は今日、来もしたのは、藤田先生が、もし生きておられたら、何をするでごわしょうか?考えもしての、先生が死んだのを、いつまでも悲しんでいて、いい時ではないと思いもしての、橋本さんの意見をお伺いに来た訳でごわす」、
橋本左内は真剣な顔になり、目を瞑って考え出した。
その真剣な顔は、美少年とも言えるほどで、しばらくしてから目を開き、
「それは、やはり私は、将軍継嗣の決定ではないかと思います」、
「おぉ、やはりそう思われもすか、して橋本どのは、どの、お方が適任だと思われもすか?」、
「それは、一橋慶喜卿しかないと思っております」、
「おいも、そう思いもす、わが藩主斉彬様も、そう考えているでごわす」、
橋本左内は、そう言って立ち、手文庫の方に行き、中から一綴の書類を出して来て、西郷隆盛に見せると、
西郷隆盛は、「おお、これは」と、声を出した。
書類の表題には、【一橋慶喜卿行状記】と書かれていた。
橋本左内は、この書類について、
「これは私が写させて頂いたものです、原本は藩侯が、お持ちです、一橋慶喜は争いを嫌い、将軍家を継ぐ気は無いと仰せられています、しかし、そのような我がままを仰せられては困ります、一橋慶喜様には、自分自身の都合だけでは無く、この日本国のために将軍家を継いで頂かなければなりません、我々がどのように人材を発掘しても・・・、今のような旧態依然たる老中やらでは話しになりません、このような旧態を残したまま人材を発掘しましても、無駄に倒幕を叫んで暴れてしまうだけになりかねない、以前、大阪で起きた大塩の事件のように【1837年天保8年2月、大塩平八郎の乱】、そのようなことにならないためにも、上下一貫、心を協せて改革に当たらねば、そのためには、一橋慶喜様しか考えられません、これは私だけの意見では無く、わが藩主、慶永(春嶽)様も、そう考え、一橋慶喜様の側近、平岡円四郎どのに、この日々のご行状を書いてもらったのです」と、話した。
「そうでごわすか、平岡どのが」、
「そうです、世間はまだ、本当の慶喜様の事を、ご存知無い、ご存知無いでは事を進めかねます、この学校の下調べが終わったら、私は、この行状記を持って、京へ向かうつもりでいます」、
「京へ持って行かれもすのは、慶永様の、ご意思でも、あるのでごわすな?」、
「はい、もちろんの事です」、
西郷隆盛は、越前の松平慶永(春嶽)が、京へ、将軍継嗣問題を持ち出して解決しようとしている事を知って、目が輝き出して来た。
「そうでごわしたか、実は、わが藩主、斉彬様も将軍継嗣問題を京の禁裏に、お願いするか考えておりもして」、
「斉彬様なら、そうでございましょう、わが藩主と同じような、お考えだと思います」と、
橋本左内は言って、さらに水戸藩内の事にも話し出した。
「水戸藩の中には、老公斉彬様の藩政改革を嫌う派閥もあります、同じ水戸藩士でも俗党か斉昭様派か、よく見極めて近づかないと失敗してしまいます」、
水戸藩では、水戸斉昭の改革派と、それを嫌う派閥が激しく対立していた。

つづく。