平岡円四郎を訪ねて来た橋本左内は早速、松平春嶽から聞かされた手紙の内容を話します、
平岡円四郎は愕然とした様子で、
「それで、越前(松平春嶽)様も、そう、お思いになられたのか?」、
その問いに、橋本左内は、キッパリと答えた、
「いえ、慶永(松平春嶽)様が、そのような考えになる訳が、ありません」、
「それは良かった、越前様に諦められたら、ますます難しくなりますから」、
「慶永様は老公様(水戸斉昭)の、お手紙だけで考えを変えるような、お方ではありません、今の天下を収める、お方は、一橋様(徳川慶喜)しか、おりません、その思いは、私も慶永様も同じです」、
平岡円四郎は、「その通りですよね、越前様は、そのような手紙を読んだからと言って、考えを変えるようなお方では、ございませんよね、失礼いたしました」と、誤った。
橋本左内は、首を振って、「いえ、いいんですよ、誰でも、このような手紙の事を聞けば不安になりますよね、水戸の御老公様は今、藤田東湖先生が亡くなって、弱気になっておられるのですよ、早く前みたいに強気になってもらいたいものです」、
平岡円四郎は、他藩の者が、これほど真剣に考えてくれているのだから、自分は、もっと強く、一橋慶喜が早く、その気になるように説得しなければならないと思った。

ここで、場面を長州、萩の吉田松陰へ変えます。

8月になると、長州萩の吉田松陰は、8条1間の自分の幽居で開いていた塾の名を、松下村塾と改めて、開始し、
まず、塾の規則を作る事にします、その考えた規則は、
     規則
一、両親の命には必ず背くべからず。
一、両親には必ず出入りを告ぐべし。
一、朝起きて、口(くち)をすすぎ髪を梳(くしけず)って、先祖を排し、御城に向かって排し、東に向かって天朝を拝すること。たとえ病に伏すとも、怠るべからず。
一、兄はもとより、年長、または徳高き人には、必ず順い(したがい)敬い(うやまい)、無礼なることなく、弟は言うもさらなり、品(ひん)いやしき、年少なし人を、愛すべし。
一、塾中において、よろず応対と進退とを、切に礼儀正しくすべし。

以上、第一条より第五条に至り、違背あるべからず。もし背く者は第一条の科(とが)は必ず座禅たるべし。そのほかの四条は、軽重により罰あり。

以上の規則を吉田松陰は考え抜いて作りました。
第一条と第二条が、「両親の承諾を得て入塾、退塾せよ」と言う意味で、
「汝の生命は誰につながる者なるや?、それを良く考えて、我に生を恵んだ両親を、我が身のごとく扱うべし」と言う、吉田松陰の思想からで、第一条に背いた者には座禅をさせるということです。
そのほかの規則に背いた者には、罰を与えるとありますが、実際には、罰を破った者に罰を与えた事は無かったみたいです。
理由として、吉田松陰は、「自分の教育の至らなさを深く恥ずる」と言う、
自分に対しての厳しい反省があったからみたいです。

つづく。