6月18日に講孟剳記(こうもうとうき)の草稿を書き終えると、吉田松陰は、家学教授として、山鹿流兵学の門人達を自分の幽居へ呼んで講義するための必見許可を藩庁へ届けます、藩士の中には、吉田松陰の山鹿流兵学の講義を受けたいという者が複数人いるので許す事になります、
こうして幽居で開いた家学教授が、このまま、叔父の松下村塾の名を引き継ぎ、
松下村塾として塾を開く事になります。
7月になってから松下村塾として塾を開きますが、
最初に住み込みで入塾して来た門下生は、
増野徳民と、いう人物で、秋になってから入塾してきます。

7月になると、タウンゼント・ハリスが来日し、駐日総領事に着任します。
ハリスは貿易業をしていて、中国、インドなどアジア諸国を巡っていましたが、
上海滞在中に、ペリー艦隊が日本へ遠征する事を聞くと乗船を希望しますが、
ハリスは、軍人では無いので断られます、しかし、まだ見た事の無い日本に興味を持ち、日本へ行きたいと思う気持ちの強いハリスは諦めきれずにいましたが、
しばらくの期間が過ぎると、日米和親条約が締結し、駐日総領事のポストが空いているのを知り、
ハリスは手紙で、アメリカ大統領に駐日総領事の就任を直訴します、これが認められて、
ハリスは、アメリカの初代駐日総領事に任務されます。
この先、ハリスは将軍謁見や通商条約を強引に幕府に求めるようになっていきますが、
これは、もう少し先のほうで。

西郷隆盛や橋本左内など、次の将軍候補に、一橋慶喜を推す者がいましたが、
平岡円四郎も、それに負けぬ激しい気持ちで、一橋慶喜を推していました。
今までは、藤田東湖や戸田蓬軒が、将軍に成る気持ちの無い、一橋慶喜に、次期将軍に成る気に、いつか、させるだろうと思っていましたが、
藤田東湖も戸田蓬軒も死んでしまい、これからは自分が代わって、一橋慶喜に、次期将軍に成る気にさせなければならないと思い、何度も説得しますが、
「世に宗家を継ぐ気は無い」と、平岡円四郎にキッパリと言います、
また、一橋慶喜は、水戸斉昭や兄で水戸藩主の水戸慶篤、阿部正弘などにも手紙で、
「私が世子となって天下を預かることなど思いもよりません、私が将軍になったら、それこそ天下を滅ぼす事になりましょう」と、
しかし、平岡円四郎は、その事を聞いて、
「いや、水戸の御老公(水戸斉昭)様が、そのような事を許す訳が無い」と、思っていたけれど、
水戸斉昭は藤田東湖が死んでから、ショックで呆然としていて、一橋慶喜の将軍継嗣の気持ちも弱くなっていました。
そして、水戸斉昭が松平春嶽に出した手紙には、
「わが息子の応援ありがたいが、今は徳川存亡の危機故に、わが家を出た者が、万が一にも天下を失わす事があれば、祖宗の申し訳が立ちず、よって、尾張、紀伊、田安とかに申し渡したいと思い・・・・」、
橋本左内は、この手紙の内容を松平春嶽から聞かされ、居ても立っても居られない気持ちなり、平岡円四郎を訪ねて行きます。

つづく。