江戸の水戸藩邸では、地震で亡くなった水戸人は江戸で埋葬したが、藤田東湖と戸田蓬軒の亡骸は水戸に送り、水戸で葬ることにした。
水戸城下の入り口の消魂橋に2人の遺体が運ばれて来ると、関鉄之介ら出迎えた者達から、すすり泣く声が聞こえてきた。
水戸の改革派の主要人物の藤田東湖と戸田蓬軒の突然の死は、弘道館で学んでいた、改革派の関鉄之介らの藩士達にはショックが大きかったみたいで、
何にしろ、改革派の関鉄之介ら藩士達にとって、この2人は神のように崇める存在だったから、
馬に引かれて運ばれる、2人の遺体の後ろを、提灯を持った藩士達が付いて進んで行った。
翌日、遺体は常磐共有墓地に、北郡奉行の高橋多一郎、並びに与力達、関鉄之介らが、高橋多一郎にしたがって埋葬を見守った。
これで、水戸学の代表者は、藤田東湖から会沢正志斎に代わり、
高橋多一郎は奉行から奥右筆頭取になって、藤田東湖に代わって水戸斉昭の側近となり、また、藩政改革派の中心人物になった。
関鉄之介は、2人の死に悲しむ中、この地震が、藩政にとって、大きな節目になっていくように思えていた。
この時の老中首座は、阿部正弘から堀田正睦に代わっていた。
堀田正睦は外交問題に加えて、大地震の復興にも当たらなければならない状態で、着任早々、大変困難な思いになっていた。
安政の大地震の前に、老中首座は阿部正弘から堀田正睦に代わってましたが、先に藤田東湖の死の場面を書いていきたかったので抜かして行きました。
ですので、これから、安政の大地震の前に戻って、老中首座の代わって行くところを書いていこうと思います、
では、すみませんが、また、安政の大地震の前に戻ります。
西郷隆盛は、島津斉彬の決めた次の藩主に、一応納得したように見えたけど、やはり納得しきれないようで、そのイライラの気持ちを、将軍継嗣に振り替えていた。
『今の日本を救うのは、水戸と薩摩でごわす、まずは、一橋慶喜(徳川慶喜)様が、どのような、お方か見とーでごわす』、
西郷隆盛は、一橋慶喜の事が知りたくて、情報を集めてみることにした。
『まずは、佃島に行きもそうか?』、
この頃、一橋慶喜は、佃島から船を出して投網をしているという話が耳に入っていて、西郷隆盛も小船で釣りに行き、もしも、一橋慶喜らしき人物を見かけたら、近づき、できれば謁見(えっけん)をと思っていた。
それで、樺山三円に、船を漕いでくれる漁師を紹介してもらおうと思い、薩摩の藩邸の下屋敷の三田屋敷へ戻った。
江戸の薩摩藩邸は四か所あって、三田屋敷は品川高輪下にあって、西郷隆盛ら仲間達の拠点みたいになっていた。
つづく。
水戸城下の入り口の消魂橋に2人の遺体が運ばれて来ると、関鉄之介ら出迎えた者達から、すすり泣く声が聞こえてきた。
水戸の改革派の主要人物の藤田東湖と戸田蓬軒の突然の死は、弘道館で学んでいた、改革派の関鉄之介らの藩士達にはショックが大きかったみたいで、
何にしろ、改革派の関鉄之介ら藩士達にとって、この2人は神のように崇める存在だったから、
馬に引かれて運ばれる、2人の遺体の後ろを、提灯を持った藩士達が付いて進んで行った。
翌日、遺体は常磐共有墓地に、北郡奉行の高橋多一郎、並びに与力達、関鉄之介らが、高橋多一郎にしたがって埋葬を見守った。
これで、水戸学の代表者は、藤田東湖から会沢正志斎に代わり、
高橋多一郎は奉行から奥右筆頭取になって、藤田東湖に代わって水戸斉昭の側近となり、また、藩政改革派の中心人物になった。
関鉄之介は、2人の死に悲しむ中、この地震が、藩政にとって、大きな節目になっていくように思えていた。
この時の老中首座は、阿部正弘から堀田正睦に代わっていた。
堀田正睦は外交問題に加えて、大地震の復興にも当たらなければならない状態で、着任早々、大変困難な思いになっていた。
安政の大地震の前に、老中首座は阿部正弘から堀田正睦に代わってましたが、先に藤田東湖の死の場面を書いていきたかったので抜かして行きました。
ですので、これから、安政の大地震の前に戻って、老中首座の代わって行くところを書いていこうと思います、
では、すみませんが、また、安政の大地震の前に戻ります。
西郷隆盛は、島津斉彬の決めた次の藩主に、一応納得したように見えたけど、やはり納得しきれないようで、そのイライラの気持ちを、将軍継嗣に振り替えていた。
『今の日本を救うのは、水戸と薩摩でごわす、まずは、一橋慶喜(徳川慶喜)様が、どのような、お方か見とーでごわす』、
西郷隆盛は、一橋慶喜の事が知りたくて、情報を集めてみることにした。
『まずは、佃島に行きもそうか?』、
この頃、一橋慶喜は、佃島から船を出して投網をしているという話が耳に入っていて、西郷隆盛も小船で釣りに行き、もしも、一橋慶喜らしき人物を見かけたら、近づき、できれば謁見(えっけん)をと思っていた。
それで、樺山三円に、船を漕いでくれる漁師を紹介してもらおうと思い、薩摩の藩邸の下屋敷の三田屋敷へ戻った。
江戸の薩摩藩邸は四か所あって、三田屋敷は品川高輪下にあって、西郷隆盛ら仲間達の拠点みたいになっていた。
つづく。