これで、金子重之助は裸の状態になり、小布団にくるまり、寒さに震えた状態で、
宇都谷峠に入った辺で、吉田松陰の駕籠に追い付いた。
吉田松陰は、その時、ほとんど裸の状態の金子重之助を見て激怒して、
「なんだ、金子君の、あの姿は裸ではないか、早く、藩庁が用意した、服を着せろ、この寒い中、風邪を引くではないか」と、
責任者の豊田を呼んで、強い語調で言ったが、豊田は、
「あれは前にも言ったが、長州の萩に入ってから着せるものだ、今から着せる訳にはいかんと」、
吉田松陰は、それを聞いて、ますます怒りが込めたが、心を落ち着かせて、
「では、これを着させろ」、そう言って、自分の着ている綿入れを脱いで、単衣1枚になり、豊田の前に放り出した。
この時の様子を回顧録では、日にちは9月23日だけど、陽暦では、11月8日で、山の中だから、裸では非常に寒い状態です、書き残した内容は、
【ーーー綿入れを脱して外へ投げ出し、単衣一枚になり、すこぶる寒けれど、輿中に布団一枚あれば雲助の蓆(むしろ)を着たる形装にてこれを凌(しの)ぐつもりだろう】と、
回顧録には、書いてあるみたいです、
これで、金子重之助は泣き出して、
「先生を凍えさせてまで、綿入れを着る訳にはいきません」と、
綿入れを受け取らないので、豊田は困り、藩庁から預かった服を着せる事にした。
その後の道々も、体の弱った、金子重之助のために、吉田松陰は駕籠の中から大きな声で、唐詩選などの講義を聞かせたり、励ましたりしながら、やがて、長州に入り、萩に着いた。
狭い道を進んで行き獄舎の近くまで来た、獄舎は2舎、2舎の獄舎が向かい合って、建っている、野山獄と岩倉獄で、野山獄は、侍とかの者が入る獄舎で、岩倉獄は、百姓とか身分の低い者が入る獄舎です、
吉田松陰は野山獄へ、金子重之助は身分の低い岩倉獄へ、2人は分けられて、入れられます。
2人は、獄へ入れられたが、2人も、2人の家族も少し不服の心を持っている、
幕府からは、自宅謹慎の処罰を言い渡されたのにどうして入獄なのか?
一方、佐久間象山は、家の荒廃が酷く、とても住める状態ではないので、まずは姉の嫁ぎ先の北山家に、しばらく住み、その後、家老の望月主水の別荘に謹慎し、家族も同じに住むことになった。
吉田松陰や金子重之助の家族は家で、獄中生活や護送の疲れを取ってやりたい気持ちだったけど、郊外で顔を見ただけ、しかも、獄での食事代や生活費は家族持ちで、
藩内では、幕府の処分通り自宅謹慎させるべきだと言う者と、牢に入れるべきだと言う者が論議した。
牢に入れるべきだと言っている者は、
「吉田寅次郎は、この先まだ、何を仕出かすか解らん」、
「幕府は、軽く処分をしたけど、我が藩の対応を試しているのだ、だから野山獄へ入れるべきだ」と、
言うような藩士が居たため、幕府に遠慮し、また、藩にかかるかも知れない迷惑を恐れて、野山獄に入れることにしたみたいで、
吉田松陰の護送が長州に着く少し前に藩は、父の杉百合之助を呼び出し、野山獄借用の願書を書かせていた。

つづく。