《・・・・・蓮台寺村にゆき、温泉に治す》と、吉田松陰の手記の中に書かれている、
下田に着くと、旅の途中の不衛生などから、疥癬(かいせん)または、ひぜんとも言われる皮膚病になってしまい、手の指の間などに、その症状が出ていて、このまま米兵の前に行くのも気が引けて、
蓮台寺村に、皮膚病に良く効く温泉があるというので、下田から北方の山の中にある温泉まで、吉田松陰は湯治に来ていて、
金子重之助は、下田で、米艦の偵察や、米兵の街の行動などを観察していた。
吉田松陰は、湯に浸かりながら、ペリー暗殺を実行するか中止にするか考えていた。
湯に浸かり、目を閉じ考えていたが、突然、目を開け、呟いた。
「よし、やめじゃ、ペルリを斬るのは、中止じゃ」と、呟いた後、辺りを見回した。
誰も、居なくて、湯に浸かっているのは、吉田松陰、1人だけだった。
吉田松陰は、声を出さないようにして、心の中で喋りだした。
『良かった、誰も居なくて、もし誰かに聞かれていたら・・・・、もし、ペルリを斬り殺したとしても同じことじゃ、この先、同じような異国人は、何人も来るじゃろう、それなら、やはり、アメリカへ連れて行ってくれるよう頼み込み、アメリカへ行き、アメリカという国をよく見て歩き、観察し、対抗策を練って帰って来たほうが良い』、
湯から出ると、『金子君にも、知らせないと』と思い、旅館へ帰った。
「金子君、ペルリを斬るのは、やめることにした」、
夜になって旅館に着くと、金子重之助の顔を見るなり言い出した。
「ええ!」、金子重之助は、少し驚きの表情になった。
「やはり、ペルリを斬るより、頼み込んで、アメリカへ連れて行ってもろたほうが得策じゃろうと思っての」、
金子重之助は、微笑んで、「そうです先生、僕も、そのほうが良いと思います」、
「金子君、一緒に、アメリカへ行こう」、
「はい、行きましょう」、
次の日、ペリーは、残りの船艦4隻を連れて下田に現れているので、2人は、投夷書を渡しやすそうな、米兵を探して歩いた。
それから苦心に苦心を重ね、ようやく手紙(投夷書)を渡すことができたのは、6日後の27日でした。
その投夷書の内容は、この国は、今、鎖国状態で海外へ出ることは固く禁じられていて、法を破れば、斬首にされ、異国船が日本に近づけば追い払う状態、しかし、自分達は貴国のことを学びたくというような感じで、書き始められていて、では、内容を途中から、
【貴国の大軍艦、マストを連ねて来たり、わが港口に泊し、日をなすことすでに久しーー
(中略)ーただし、吾国の海禁いまだ除かれず、この事もし伝播せば、すなわち生等はただに追補せられるのみならず、刎斬(斬首)たちどころに至るは疑いなきなり。事のあるいはここに至らば、すなわち貴大臣、各将官の仁厚、ものを愛するの意を傷つくることまた大なり、執事願わくば、請うところを許し、また先に生等のために委曲包隠して開帆(出発)の時至り、もって刎斬の惨を免るるを得さしむべし。もし他年自ら帰るに至らば、すなわち国人もまた、必ずしも徃時を追窮せざるべし、生等言は粗暴なりといえども、実に誠確なり。執事願わくば、その情を察し、その意を憐れみ、疑うことをなすなかれ。拒むことをなすなかれ。万二、公太、同じく拝呈す。日本嘉永七年甲寅三月    日】、
この空白の日付には、二五(陰暦では二七日)と記されていたみたいです。

つづく。