年が明け、島津斉興が新年の祝辞を述べるため登城し、将軍に謁した。
この時には、下賜品があるのが決まっていて、その下賜品は家によって決まっていて、数量も品物も毎年同じ物だけど、この時は違っていた。
茶壺だった、いつもと違って茶壺が出てきた、島津斉興は、ハッとした。
これは、大名を隠居させたいとき、茶でも飲んで余生をノンビリと過ごしなさいというような意味で、幕府が引退させたい大名に行う無言の手であります。
島津斉興は、一瞬、戸惑ったが、これは、阿部正弘と島津斉彬が計ったことだと解るので、知らん顔して、トボけて、その場をしのいだ。
その後、登城した時は、朱色の十徳が出された、十徳は世外の者が着るもので、朱色なら隠居を命じられているようなものですけど、これも島津斉興は、トボけ通した。
島津斉興の、この強情さには、阿部正弘は、さすがに・・・となった。
こうなったら、幕府の面目まるつぶれのような感じになってしまい、
阿部正弘は、島津家と親しい、西ノ丸留守居の筒井政憲に言い、筒井正憲は薩摩藩家老の島津将曹と吉利仲を呼んで、最近の薩摩藩の評判はよくなく、厳しい沙汰を出そうと言うようなことになっている、しかし、もし、島津斉興が隠居願いを出し、身を退けるなら穏便にすますが、これ以上、続けられるなら、厳しい沙汰を言い渡すだろう、一刻も早く隠居願いを出すようにと。
これで、島津斉興は、しぶしぶ隠居願いを出し、島津斉彬が藩主になった。
これで、斉興派の者達は処罰され、斉彬のために働き、流罪等になった斉彬派の者達は赦免され戻ってくるだろうと、西郷隆盛等は思ったけど、そうはならなかった。
大久保利通の父も、喜界島から、なかなか戻ってこない、
西郷隆盛の建白書に対して、島津斉彬の返書の答えは、赦免召還は急にはできないが、いずれ時期を見て、必ず赦免召還すると書いてあり、
その理由として、父の非をあらわすことになり、【父は子のためにかくし、子は父のためにかくす、直きことその中にあり】という聖人の教えもあるのでと言う様な内容だった。
もちろん西郷隆盛は納得していない、納得していないまま参勤のお供として江戸へ行くことになります。

では、水上坂の場面へと戻ります。
島津斉彬の参勤の一行は、水上坂を後にし、桜島は見えなくなっていった。
その旅は、2月いっぱいかかり、3月に入ってから江戸に入った。
その間に、横浜で2回にわたって、幕府代表とアメリカとの対談が行われて、幕府は12ヶ条からなる和親条約に調印し、下田と箱館の開港許可状を与えた。
これが、3月3日で、4日後の3月7日に、ペリーは、副将のアダムスに、この事を本国のアメリカに知らせに行かせた。
この3月3日になる前、江川太郎左衛門は、ジョン万次郎に言った。
「もうすぐだな、アメリカとの交渉の通訳をする日は」、
江川太郎左衛門は阿部正弘に、ジョン万次郎を正式の通訳にするよう頼み、阿部正弘の了解を得ていた。
でも、中浜万次郎が正式通訳となると、水戸斉昭ら反対派が、なんとか阻止しようと、違う会見時間を伝えるように仕組んだ、そのため3月3日、横浜村の会見場所に行くと対談は、もう終わった後だった。
これには、ジョン万次郎よりも江川太郎左衛門のほうが怒った。
ジョン万次郎は、予測していたかのように、
『やっぱり、こんなことになったな』と、思い、日本の重い身分制度が、アメリカのような自由な環境になるのは、はるか先のように感じ、
「もう、土佐に帰ろうか」と、ポツリ呟いた。
この数年後の、1860年、ジョン万次郎は、勝海舟、福沢諭吉らと、遣米使節団として咸臨丸で太平洋横断、アメリカに渡ることになります。

つづく。