島津斉興は島津斉彬のことを、
「まあ、よくも、ここまで重豪様に似て、西洋好きになったものだ」と、毛嫌いし、
「やはり、次の跡取りは、久光にしたいものだ」と思っている。
洋学好きな兄の斉彬と違って、久光は漢学、国学が好きで、洋学などは嫌い、こんなところが斉興は気に入っていて、もし、斉彬を次期藩主にすれば、また洋物に金を使い込んでしまい、また財政難にしてしまうのではと、斉興は思い、重臣等家中も、そう思う者が多くいた。
そこで、次の藩主は斉彬にという斉彬派と、次の藩主は久光のほうが相応しいという者の争いになり、斉興は斉彬派の者達に対して弾圧を始めた、切腹、遠島、蟄居など、それで大久保利通の父、大久保時右衛門も琉球館附役の職を取られ喜界島に遠島になってしまう、そして、西郷隆盛も、その頃、西郷の家と親しくしていた、赤山靱負も切腹させられた。
西郷隆盛は、子供の頃から赤山靱負に可愛いがられていたので、赤山靱負を尊敬し好きだったが、そんな赤山靱負の介錯を西郷隆盛の父、西郷吉兵衛がすることになってしまった。
赤山靱負は、自分の処刑後、自分の着ている襦袢を西郷隆盛にわたしてくれと言って腹を切った、自分の志しを襦袢に込めて伝えたかった。
西郷隆盛は、その襦袢を受け取ると、一晩中泣き続け、その時、始めて藩内の状勢を知り、その元兇となったのは由羅だとわかり怒りが湧いた。

そんな頃、老中の阿部正弘が動き出した。いつまでたっても世子の島津斉彬が薩摩藩主にならないので、
その頃、日本の近海には欧米の船が出没するようになって日本の危機を感じていたので、自分と親しく、西洋に詳しい島津斉彬に早く薩摩藩主になってもらい異国について相談に乗ってもらいたく、
現薩摩藩主の島津斉興を隠居しなければならない状況にするための工作を始めた。
その工作のために、調所広郷は江戸へ出て来て詰問され、全ての証拠の書類等を始末して、毒を飲んで自殺しましたが、その工作とは、
薩摩藩は琉球を通じて清国と貿易することを幕府から許されていたが、調所広郷が財政建て直しをするために、決められた額を上回る密貿易をしていた。
でも、これは、調所広郷が始めたわけではなく昔からしていて、幕府も世間も知っていて、今まで何の問題も無かったのに、1848年頃、急に薩摩藩の貿易に不審ありと阿部正弘が問題にしてきた、島津斉興に責任を取らせ隠居させ、島津斉彬を薩摩藩主にするために、
そのために調所広郷は江戸へ出て来て、厳しく取り調べられ、証拠書類を始末し、毒を飲んで自害します。
調所広郷が亡くなったので、島津斉興は、ひどく悲しみます、調所広郷が死んだのは斉彬派の者達が阿部正弘等幕府側と仕組んだからだと怒り、斉彬派への大検挙が始まります。
そして、幕府に対してのお詫びのために、調所広郷の家に対して罰を行なわなければいけ
ませんが、本来なら、調所広郷の家の取り壊しとかにしなければいけないところを名字を変えさせるぐらいの軽い罰にし、調所広郷の部下に対しても罪に問わないようにします。
斉彬派への大検挙が始まった翌年、斉彬派の1人、諏訪神社の宮司の井上出雲守が福岡藩へ逃亡して藩主の黒田長溥に、このことを訴えてから、しばらくして、井上出雲守の友人達も脱走して来た。
黒田長溥は島津重豪の息子で、黒田家へ養子に行っている人物で、島津斉彬の大叔父になり、実家の騒動を聞いて、黒田長溥は兄である豊前の中津候奧平昌男、八戸候南部信順に相談して、宇和島藩の伊達宗城に相談した。
そして、伊達宗城は、これを阿部正弘に告げる、
これで、阿部正弘は、これは良い機会だと、今度の正月に島津斉興が登城してくるのを待つことにし隠居に追い込むことにした。

つづく。