西郷吉之助(西郷隆盛)が、藩主・島津斉彬に出した建白書の内容は、

藩主となった島津斉彬が初めて帰国すると藩内に、藩政について意見のある者は、書いて差し出すようにと意見を求めた、
それに対して書いて出した、西郷隆盛の建白書の内容は、
1、ご治政の手始めとしては、何よりも従来わがままを働き、国政を誤った者共を処分なさることが大事である。
2、お由羅の方以下の姦人らを処分さるべきこと。
3、この前の騒動で流罪になったり、脱藩したりしている人々の罪を許し、速やかに召しかえさるべきこと。
4、水戸を規範として兵制を改革し、士気を振興させるべきこと。
などで、それに農政の事なども書いていたらしい。
この建白書で、西郷隆盛は、島津斉彬が藩主になる前の騒動で流罪になった者が、まだ許されないのと、お由羅への怒りを書いていたが、
この騒動とは、お由羅騒動とも言い、私は、お由羅騒動については書かないつもりでしたが、
やはり書いたほうが良いと思い書く事にしました。

しばしの別れになる、西郷隆盛と大久保利通は見つめあっていた。
「じゃあ、吉之助さぁ、しっかりと参勤のお供を勤めるでごわすぞ」、
「ああ、一蔵どん、わかってるでごわす、じゃあ皆んな、行ってくるでごわす」、
西郷隆盛は、そう言い列のほうへ急いで行った、そして、大久保利通のほうを振り返り見て、
『一蔵どんの、父上は、まだ、喜界島から戻されてないでごわすな、いつになったら戻されもすんだろか、斉彬様は、近いうちに戻すと返書には書いてありもしたが』、
西郷隆盛は、大久保利通との、いつだったかの会話を思い出した。

それは、2人が歩いていると、少し離れた所に、何10人かの家来を引き連れた、女用の乗り物が止まり休憩しているのが見えた。
乗り物から降り座っている女は、歳は40を超えたぐらいで綺麗で、周りには何人かの御殿女中風の女が仕えていた。
それを見た、西郷隆盛は、
「由羅だ」と怒りのこもった声で言った。
すると、大久保利通も怒りのこもった声で、
「由羅め」と、同じように言った。
そして、どちらともなく、「あの妖女め」と、
大久保利通は、「おいどんの親父殿は、あの狐女のせいで島流しになったようなもんじゃ」、
西郷隆盛は、「ほんとにそうでごわす、おいどんがもっと納得いかないのは、斉彬様が藩主になったら、すぐに、一蔵どんの親父どんは帰ってくると思ったでごわすが、今だにまだ、島から戻されないことでごわす」。
大久保利通の父、大久保治左衛門が数年前、喜界島に流罪されたことに由羅は結構、関係していて、
由羅の息子は、久光で、次の藩主は久光にしようと、
由羅党は、呪術をもって、島津斉彬の子供達を呪殺したという噂がたっていた。
古来薩摩に伝わる呪術で、島津斉彬の子供ら四男三女が次から次へと死んでいったという噂が。

つづく。