薩摩では、西郷隆盛が、家族、そして大久保利通ら友人と参勤の集合場所の大広場へと向かっていた。
大広場に着くと、もう沢山の人が集まっている、参勤のお供に参加する人達と、それを見送る家族や友人知人達です。
西郷隆盛は、自分を見送ってくれる人達を見て、
「それじゃあ、皆んな、おいどんは江戸へ行ってくるでごわす」、
そう言って、急いで、参勤に行く集団の方へと、大きな体を揺らしながら走り出した。
大久保利通は、「吉之助さあ、しっかりと、お勤めを果たすでごわすぞ」、
西郷隆盛は大久保利通を見て、
「ああ、一蔵どん」と言い、笑いながら、手を振った。
参勤の集団は、枠組み等が終わり、やがて長い行列が出来て、進み出した。
先頭に槍、毛槍、金紋の挟箱、お徒士、士分、騎馬の者、お乗物、鞍をおいたご乗馬数頭、最後に小荷駄、この長い格式の行列は、いくつもの町の間を通り抜けて続いていた。
藩主の、島津斉彬は馬に乗っている、どの藩でも同じだったみたいですが、藩主の国入りと出府の時、城下町を通行するときは、藩主は騎馬だったみたいです。
見送る人々は、馬上の島津斉彬に手を合わせ拝み、
お供で行く、家族の者には、見つめたりして無言のお別れをしている、
城下を出て、約2㌔ほどで山間の道に入って、約1㌔ぐらいで、水上坂に着きます。
これが江戸時代、鹿児島城下から他国へ出る道路で、上りきったところに藩侯のお茶屋があり、ここで藩主が国入りや出国の時、服装を変えることになっていたらしいです。
今回は、江戸への旅立ちになるので、服を旅装に変えて、馬から降り、乗り物に乗って江戸へと向かいます。
また、国へ帰って来た時は、旅装を脱ぎ、乗り物を降りて、馬へと乗り換えます。

出国のため着替えている間は、休息になりますから、お供の者の家族や親戚、友達などが、ここまで、ついて来て別れを惜しんだそうです。
それと、ここからは城下が見えるだけでなく、桜島が良く見え、薩摩人にとって、やはり桜島は特別な山で、
水上坂を過ぎれば、桜島は、もう見えなくなってしまう、だから心ゆくまで眺めていたい、その当時の旅に出る前の人にとっては、大切な休憩場所だったみたいです。
着替えを終え、お茶屋の縁に座った島津斉彬は、近くの者に聞いた。
「この中に、西郷吉之助という者がいるはずだが、どこにいる」、
「あそこで、見送り人と話している、大きな男が吉之助でごわします」、
家来の者は、西郷隆盛を指差した、西郷隆盛は体が大きいので、すぐにわかった。
西郷隆盛は見送りについて来た、弟の吉次郎や大久保利通らと、しばしの別れの前の話をしている。
「おお、あの男か」、
島津斉彬は西郷隆盛を、ジッと見て、
『あの男が、あの建白書を書いたのか』、そう心の中で呟いた。
島津斉彬は西郷隆盛の書いた建白書を読み、その勇気と誠実さを感じ、参勤のお供に加える事に決めたのだった。

つづく。