1854年、正月21日、薩摩藩主・島津斉彬が参勤で江戸へ向かい出発する日だった。
正月21日は今で言えば、2月下旬にあたるみたいで、本来なら、3月に入ってから江戸へ向かうみたいでしたが、ペリー再来港の様子などの連絡もあり、阿部正弘からも早く来てもらいたいという早馬などもあって、出発日を早めることに。

この日の朝、夜明け前、西郷吉之助(西郷隆盛)は、使用人の権兵衛の看病をしていた。
権兵衛は、数ヶ月前から病気にかかり、家で寝たきりのような状態になっていて、
西郷隆盛は、子供の頃から権兵衛に、おもりをしてもらっていたので、このまま明日、参勤のお供で江戸へ行けば、これから先、何年も会えなくなると思うと、見舞いに行って、会っておこうと思い、権兵衛の家まで行き、そのまま、夜明け前まで看病していた。
「もうすっかり朝になったでごわす、では権兵衛どん、おいどんは江戸へ行ってくるでごわす、権兵衛どん、体に気をつけとーせよ」、
「旦那様、ありがとうごわした、旦那様の江戸への初お上りの日でございもすのに、朝まで看病してもらって、ほんまなら、おいどんも、お供して行かなければなりもさんのに、申し訳ない気持ちでいっぱいでごわす」、
そう言って、権兵衛は涙を流した、枕を濡らすほど、
西郷隆盛は、自分も涙が出そうになるのを、グッとこらえて笑顔で、
「そんじゃあ権兵衛どん、江戸へ行ってくるでごわす」、
そう言って玄関まで行くと、権兵衛の妻も見送りにきて、
「吉之助さま、わざわざ夫のことを見舞いに来てくれもして、ありがとうごわした、気をつけて江戸へ行ってきてくれもせ、ご活躍をお祈りしてもす」、
「ありがとうでごわす、では行ってきもす、権兵衛どんのことを、くれぐれもよろしくお願いしもす」、
西郷隆盛は、旅支度をするため、大きな体を急がせて家に帰った。
家に帰ると、大久保一蔵(大久保利通)が来て待っていた。
「おお、一蔵どん、来てくれてたでごわすか」、
「吉之助さあ、今日、出発でごわすぞ、権兵衛どんの見舞いに行くのは、良いでごわすが、朝まで帰って来もさんとは・・・、早く旅の用意するでごわす」、
「すんもはん、一蔵どん」、
西郷隆盛は、急いで顔と体を洗って旅装束に着替えて、大久保利通と西郷家全員が座り、出発前の祝い酒を飲み始める(大人は)と、吉井仁左衛門(幸輔)、伊地智龍衛門(正治)、福島矢三太の3人が見送りに来た。
この3人の年齢は同じで、西郷隆盛より1つ下で、この3人と西郷、大久保、そして、今、江戸に出ている、有村俊斎の6人は、仲が良くて、読書会をよくしていて、近思録という書物を共同研究していたそうです。
やがて時間が近づいてきたので、全員、家を出て集合場所の広場へと向かった。
途中、大久保利通は、「吉之助さあ、江戸へ着きもしたら、江戸の状勢や天下の事、手紙に書いてくれもし」、
「ああ、わかってるでごわすよ、一蔵どん、便のある度に送るでごわすよ」、
「ああ、お願いしもす、吉之助さあ」、
大久保利通は、なるだけ江戸の事や世の中の流れを知りたいので、手紙を頼んだ。
藩の公用便は、月に2回出ることになっていたらしく、江戸勤番の侍等は、その時に、家族の者とかに手紙を出していたらしいです。

つづく。