自分では、なかなか出来なかった、お金の工面を弟の吉次郎は、やったので、西郷隆盛は熱い眼差しで、感謝の気持ちを込めて見つめ両手をついて言った。
「吉次郎どん、すまんことでごはんど、普通なら、兄が弟のために動いて、弟に感謝されるのでごわすのに、これでは兄弟反対でごわす、これからは、おいどんが弟になって、吉次郎どんのことを兄(あに)さぁと呼びたい気持ちでごわす」、
「兄さぁ、何を言いなさるか、手をあげて下さい、兄さぁには、江戸へ行って、お勤めを果たしてもらいたいでごわすから」、
2人の兄弟は、涙ぐんで、見つめあっていた。

さて、その頃いよいよ、ペリーは、琉球を出航し江戸へと向かった。

その江戸では、以前から佐久間象山が言っていたような事を幕府は始めていた。
大船建造の禁止法を解いて、急いで、大船建造に取り込んだり、西洋砲術を奨励したり、オランダに軍艦と兵器を注文したりと、これを見て佐久間象山は、
『わしが前から上申していたことを、今さら始めよって、今さら始めても、もう手遅れじゃわい幕府の奴どもが』と思い、薄笑いをしている。
幕府は江戸湾の警備も、今までとは少し変え、会津、川越、忍(おし)、彦根の四藩は、今までの警備を解かれて、会津、川越、忍の三藩は品川砲台の守備になり、彦根藩は羽田、大森の警備になって、長門、肥後、備前、因幡、筑後の五藩は、相模、安房、上総から横浜の本牧海岸の守備を固めるように改めた。

そして、いよいよ、ペリー艦隊は江戸近海へと近づいていて、副将のアダムスも連れて来ていた。
正月14日、江戸湾の入り口まで来て、大島沖に停泊し、その2日後、浦賀沖に現れた。
その数、蒸気船3隻、帆船5隻の合計8隻の艦隊、浦賀沖には錨は下ろさず、本牧沖に入って来た。
但し、この時は、何かの理由で1隻は遅れてしまっていて、到着したのは7隻で、後に、遅れながら1隻が到着して8隻になったみたいです。
ペリーは、止まらず中へ入って来たので、浦賀奉行・伊沢政義は急いで人を派遣して浦賀沖に戻るように伝言したが、ペリーは相手にしない。
相手にせず、江戸の前の海で、まるで大砲をちらつかせて江戸を見ているような、ペリー艦隊に阿部正弘は、
「そのような威嚇の態度では交渉できない、まずは浦賀沖まで下がってくれ」と、艦隊の通訳者に伝えた。
一方、日本人達は怯えているだろうと思っていた、ペリーは、阿部正弘からの強気の伝言を聞き驚きの表情になったが、ニヤッと笑い顔になり、
「オ〜、OK、わかった」と言い浦賀沖まで下がって行った。
その後、米艦船が、大森沖辺りまで、測量に来たりとか、日本側は、新たに九藩、警衛に追加するなど、いろいろあったが、幕使の香山栄左衛門とアメリカ副将アダムスが会見し、横浜を応接地にすることに決まった。

その頃、吉田松陰は、海戦策を書き始めていた。

つづく。