「あなたは、もしや、薩摩の西郷さんでしょうか?」、
「はい、いかにも西郷吉之助でごわす」、
「聞いていた通り大きいですね、私の倍ぐらい、ありそうですね」、
この時、西郷隆盛は29歳、橋本左内は22歳で、
この先、この2人は、お互いに、同輩、尊敬しあえる友人となります。
橋本左内は、越前藩の奥の御用を務める外科医、橋本彦也(または長綱)の長男として産まれ、左内は通称、名は綱紀(つなのり)、号は景岳で、
10歳で藩の医学所済世館に入り、16歳から19歳まで大阪の緒方洪庵の適々斎塾(てきてきさいじゅく)、(略・適塾または適々塾)に入って医学を学びました。
橋本左内の性格は優しく、友達が虫や小鳥などを捕まえて、虐めているのを見ると止めに入ったり、
また読書が好きで、食事をしている時でも本を読んでいたみたいです。
それが、大阪で蘭学や医学を学んでいる頃に、梅田雲浜や横井小楠に会ったりして、だんだんと政治的な事に気持ちが行ってしまいます。
こうして、1855年6月に藩主、松平慶永(春嶽)から、学業上達を受け、医員を免ぜられて士分になり、江戸出府になります。
橋本左内は、適塾に入ってからは秀才と言われていたみたいで、
その橋本左内の行動の中には、毎晩のように塾の寮を抜け出しては、天満橋の橋下に群がっている浮浪者の病気や怪我の治療をしていたらしく、お産の手伝いもしていたみたいです。
後で、この事が、緒方洪庵の耳に入った時には、緒方洪庵は大いに感心し、自分の弟子とは言わずに、友と言い、
「左内は、私の友であり、将来は友では無くなり、よほどの偉い人になっているだろう」と、ほめていたみたいで、
その通り、橋本左内は松平春嶽に認められ、松平春嶽の政治顧問になり、幕府批判運動の活動をして、安政の大獄で刑殺され、緒方洪庵の手の届かない運命になります。
緒方洪庵は弟子達に、ここで学んだからと言って必ずしも医者になる必要は無いと思っていたらしく、こんな時代だから、いろんな方面で活動しても良いと思っていたみたいで、
だから、大村益次郎や福沢諭吉などが別の方向へ行ってしまったとも言えるみたいです。
適塾の門下生は、福沢諭吉、橋本左内、村田蔵六(後・大村益次郎)、大鳥圭介、長与専斎、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)、佐野常民など多数いたみたいです。
では、ここから少し、緒方洪庵について書いていきたいと思います。
緒方洪庵は、備中(岡山県)の足守町に木下家という小さな藩があって、城は無く、丘に陣屋と呼ばれるものがあります、
緒方洪庵は、この藩の下級武士の瀬右衛門の家に、三男として生まれます、でも三男だから、養子に行くか、自立するかのどちらかにしなければいけません、
父親から、「この先、どうするのか?」と、聞かれると、
緒方洪庵は、「私は、医者になりたい」と、答えます、
つづく。
お詫びですーーー、
もう、だいぶ前、何話だったのかは忘れましたが、村田蔵六(大村益次郎)が、宇和島藩の西洋軍事技術の翻訳に就いたのは、イネ(失本イネ)から二宮敬作に送った手紙が原因だったと書きましたが、それは私の勘違いでして、
緒方洪庵が二宮敬作に村田蔵六を紹介して、翻訳に就いたでした、すみませんでした、
緒方洪庵の事を書いていて、前に間違えて書いたことを思い出してしまいました。
「はい、いかにも西郷吉之助でごわす」、
「聞いていた通り大きいですね、私の倍ぐらい、ありそうですね」、
この時、西郷隆盛は29歳、橋本左内は22歳で、
この先、この2人は、お互いに、同輩、尊敬しあえる友人となります。
橋本左内は、越前藩の奥の御用を務める外科医、橋本彦也(または長綱)の長男として産まれ、左内は通称、名は綱紀(つなのり)、号は景岳で、
10歳で藩の医学所済世館に入り、16歳から19歳まで大阪の緒方洪庵の適々斎塾(てきてきさいじゅく)、(略・適塾または適々塾)に入って医学を学びました。
橋本左内の性格は優しく、友達が虫や小鳥などを捕まえて、虐めているのを見ると止めに入ったり、
また読書が好きで、食事をしている時でも本を読んでいたみたいです。
それが、大阪で蘭学や医学を学んでいる頃に、梅田雲浜や横井小楠に会ったりして、だんだんと政治的な事に気持ちが行ってしまいます。
こうして、1855年6月に藩主、松平慶永(春嶽)から、学業上達を受け、医員を免ぜられて士分になり、江戸出府になります。
橋本左内は、適塾に入ってからは秀才と言われていたみたいで、
その橋本左内の行動の中には、毎晩のように塾の寮を抜け出しては、天満橋の橋下に群がっている浮浪者の病気や怪我の治療をしていたらしく、お産の手伝いもしていたみたいです。
後で、この事が、緒方洪庵の耳に入った時には、緒方洪庵は大いに感心し、自分の弟子とは言わずに、友と言い、
「左内は、私の友であり、将来は友では無くなり、よほどの偉い人になっているだろう」と、ほめていたみたいで、
その通り、橋本左内は松平春嶽に認められ、松平春嶽の政治顧問になり、幕府批判運動の活動をして、安政の大獄で刑殺され、緒方洪庵の手の届かない運命になります。
緒方洪庵は弟子達に、ここで学んだからと言って必ずしも医者になる必要は無いと思っていたらしく、こんな時代だから、いろんな方面で活動しても良いと思っていたみたいで、
だから、大村益次郎や福沢諭吉などが別の方向へ行ってしまったとも言えるみたいです。
適塾の門下生は、福沢諭吉、橋本左内、村田蔵六(後・大村益次郎)、大鳥圭介、長与専斎、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)、佐野常民など多数いたみたいです。
では、ここから少し、緒方洪庵について書いていきたいと思います。
緒方洪庵は、備中(岡山県)の足守町に木下家という小さな藩があって、城は無く、丘に陣屋と呼ばれるものがあります、
緒方洪庵は、この藩の下級武士の瀬右衛門の家に、三男として生まれます、でも三男だから、養子に行くか、自立するかのどちらかにしなければいけません、
父親から、「この先、どうするのか?」と、聞かれると、
緒方洪庵は、「私は、医者になりたい」と、答えます、
つづく。
お詫びですーーー、
もう、だいぶ前、何話だったのかは忘れましたが、村田蔵六(大村益次郎)が、宇和島藩の西洋軍事技術の翻訳に就いたのは、イネ(失本イネ)から二宮敬作に送った手紙が原因だったと書きましたが、それは私の勘違いでして、
緒方洪庵が二宮敬作に村田蔵六を紹介して、翻訳に就いたでした、すみませんでした、
緒方洪庵の事を書いていて、前に間違えて書いたことを思い出してしまいました。