東海道は現在では国道1号線ですね。

東海道は江戸・日本橋~京・三条大橋を結ぶ道であった訳です。

東海道を歩いて

東日本の人は西日本に行き

西日本の人は東日本に行ったのでしょう。

 

バリタイ福生店の公式HP
 

東日本の人にとっては
京の街自体、伊勢神宮、熊野大社は行ってみたい

(今で言うところの)観光スポットであったのでしょうし
西日本の人にとっては
江戸の街自体が観光スポットであった事でしょう。

東海道を中心にした旅に関しては

東日本の人にとっても

西日本の人にとっても

歌川広重の「東海道五十三次」や

十返舎一九の「東海道中膝栗毛(1802年)」は

旅情を誘うものだったのでしょうね。
 

江戸の人は日光の東照宮にお参りに行ったのではないでしょうか?

徳川家の威光を人々に示す装置の一つだったのだろうと思います。
また、江戸の人達は江戸を起点とすることが出来ますから

奥州の平泉にある金色堂をお参りする目的の旅をする人も

いたのでしょうね。
そういうツアーに江戸の町人も参加することが出来たのなら

松尾芭蕉の「おくのほそみち(1702年)」も観光ガイドブック的な

役割を果たしていたのなら面白いですよね。

 

 

(9:17辺りからがおすすめです)

 

「東海道中膝栗毛」は1802年から発行されていたそうなので
「おくのほそみち」の1702年の刊行から百周年記念として

十返舎一九なるペンネームで「東海道中膝栗毛」が

発行されたのかもしれないと考えるとワクワクしますね。

十返舎一九の「一九」は「一句」なのだろうと思います。

十返舎には何が隠されているのでしょうか?

(私には判りません・・・。)

「一九」が「一句」であるなら

俳句が記された紀行文である「おくのほそみち」を

意識したのでしょうか?

 

私は「東海道中膝栗毛」を読んだ事がまだないのです。

現在のウィキペディアの記述によれば

狂歌、狂言、浄瑠璃、歌舞伎、浮世草子、落語、川柳などに関して

十返舎一九は知識を多く持っていたとされています。

俳句はどうだったのでしょう?

 

江戸時代に旅をする事自体が商売であった人は

薬売りの行商人
旅芸人

聖(ひじり(高野聖は泉鏡花の作品で知られていますね。))

山伏

等でしょうか?

 

こういった人達は日本各地に散らばっていて

各々個人が持っている情報を集めた情報と必要とする人達も

いたことでしょう。

 

水戸光圀は史実では水戸と江戸の往復しかしていなかったという話も聞きます。
しかし、庶民は水戸光圀の顔、姿、声を知らないのですから
ひょっとしたらひょっとして

水戸黄門の諸国漫遊記の様な事が本当なのだとしたら

面白いですよね。

 

日本全国を歩いたんじゃないか?位の伝説のある弘法大師空海は

宗教家ですね。

ですから、高野聖や山伏(山伏は真言宗に属する人達もいますので)が話を広めたのでは?という予想をしたくなります。

 

一方

水戸光圀の(TVドラマの)諸国漫遊記の話が現実的にあり得ると

すれば上述のネットワークによってもたらされた情報に基づいて

トラブルが起こっている現場に突然、黄門さまが

現れるという事でしょうかね。

 

「水戸光圀である。」と名乗ってしまったら

命を狙われてしまうだろうと

夢の無い発想も出てきます。
まぁ

黄門さまがトラブルを解決して立ち去った後に

幕府或いは水戸藩の隠密の人間や、かわら版屋が

黄門さまの噂を流す。

講談師が出し物として黄門さまの活躍を各地で語るのでしょうかね。

 

時代劇のドラマは製作費がかかるので

新作はあまり製作されず

アーカイブを視聴するのが主流なんですかね?

 

今夜のバリタイに「かげろうお銀」がいるかもしれませんね!