1930年代に世界的に鉄道車両を流線型にするのがブームになり、ヨーロッパやアメリカで様々流線型車両が製造された。
そして日本でも流線型のブームはやってきた。まずは3シリンダー式で有名なC53形蒸気機関車の43号機が流線型に改造されることになった。
流線型は空気抵抗を減らしてスピードアップを図る物である。ヨーロッパの流線型は時速200km位は出ているが、狭軌鉄道の日本では蒸気機関車はそんなにスピードは出ない。スピードだけなら流線型は必要とは言えないのだ。
流線型の必要性はスマートな外観、そして空気の流れをスムーズにして煙りが乗員、乗客にかからなくなると効果ほうが大きいと言える。
C53 43の場合、新規に流線型車両を作ったわけでは無く。元々あった車両を改造した物だったので整備点検の際はカバーを外す必要があり、他のC53より整備に1.8倍の時間がかかってしまった。さらに機関車と炭水車の間に幌をつけたので運転室内は騒音が少なくなったがボイラーの熱が外に漏れないのでサウナ状態になっていたという。
C55形も20号-40号までの21両が流線型として新造された。こちらは新規に流線型として製造されたにもかかわらず整備性はやはり悪く、運転室はサウナ状態だった。
そして1936年5月に鉄道省が鹿児島本線で流線型C55形を時速100kmで走らせた実験が行われた結果、流線型のスピードアップの効果は皆無と証明された。
そのため戦争が激化した時点で流線型のカバーは撤去されていった。特に流線型として新規に製造されたC55形は無残な姿になってしまった。
C55は戦後の1950年代にカバー無しの状態に再整備されたがC53の方は3シリンダーという複雑な構造が嫌われため廃車になってしまった。
日本国内の流線型蒸気機関車は失敗に終わったが、南満洲鉄道にはパシナ形の牽引するあじあ号がある。
これは機関車と客車をセットで設計したため客車もきれいな流線型になっている。時速も130kmは出ていたので流線型の効果もあったかもしれない。
大正15年9月23日、山陽本線安芸中野駅と海田市駅の間で特急列車が脱線する事故が起こった。この時木製の客車が多くの犠牲者を出す原因とされ客車が鋼鉄製に切り替わるきっかけになった。
しかし、客車の鋼鉄化は列車重量の大幅な増加を招き従来のC51などでは力不足になってしまう恐れがあったが、当時の技術力ではより大きな力をもつ機関車の製造は困難であった。
そこで当時の鉄道省が考えたのがシリンダーを3つに増やすことだった。シリンダーとはボイラーの蒸気を送り込みピストンを動かすためのものであり普通の蒸気機関車なら左右に一つずつある。
シリンダーが2つのままでは馬力アップは不可能だと考えられたので3つに増やそうとしたのだった。
鉄道省では3シリンダーの機関車の製造経験はなかったのでアメリカン・ロコモティブ社に3シリンダーを持つ8200形、後のC52形を6両、機関車本体のみ(炭水車は国産)発注した。
3シリンダー蒸気機関車のための弁装置がグレズリー式弁装置である。開発したのがロンドン・アンド・ノースイースタン鉄道の技師長ナイジェル・グレズリー卿。ところがこの装置は部品の耐久性や工作精度などあらゆる部分で高水準を求められたため扱える鉄道会社は少なかった。日本の鉄道省で扱うのは初めての技術でなので扱える技術があるかどうかは未知数であった。
早速8200形を参考にC53の設計が始まったが、鉄道省の技術者がグレズリー式弁装置をよく理解できなかったのか、改悪としか言いようが無い状態になってしまい整備性は最悪で動作不良が多発し、整備員からは嫌われてしまった。結局お召し列車の牽引もさせてもらえなかった。
その後3シリンダー蒸気機関車の設計及び製造は日本国内ではされなくなりC53が日本製唯一の3シリンダー式となった。
元機関士でC53の運転中時速140kmを出した(日本最速)と主張している人がいるらしいが真偽は不明である。
梅小路蒸気機関車館で静態保存されるC53 45
しかし、客車の鋼鉄化は列車重量の大幅な増加を招き従来のC51などでは力不足になってしまう恐れがあったが、当時の技術力ではより大きな力をもつ機関車の製造は困難であった。
そこで当時の鉄道省が考えたのがシリンダーを3つに増やすことだった。シリンダーとはボイラーの蒸気を送り込みピストンを動かすためのものであり普通の蒸気機関車なら左右に一つずつある。
シリンダーが2つのままでは馬力アップは不可能だと考えられたので3つに増やそうとしたのだった。
鉄道省では3シリンダーの機関車の製造経験はなかったのでアメリカン・ロコモティブ社に3シリンダーを持つ8200形、後のC52形を6両、機関車本体のみ(炭水車は国産)発注した。
3シリンダー蒸気機関車のための弁装置がグレズリー式弁装置である。開発したのがロンドン・アンド・ノースイースタン鉄道の技師長ナイジェル・グレズリー卿。ところがこの装置は部品の耐久性や工作精度などあらゆる部分で高水準を求められたため扱える鉄道会社は少なかった。日本の鉄道省で扱うのは初めての技術でなので扱える技術があるかどうかは未知数であった。
早速8200形を参考にC53の設計が始まったが、鉄道省の技術者がグレズリー式弁装置をよく理解できなかったのか、改悪としか言いようが無い状態になってしまい整備性は最悪で動作不良が多発し、整備員からは嫌われてしまった。結局お召し列車の牽引もさせてもらえなかった。
その後3シリンダー蒸気機関車の設計及び製造は日本国内ではされなくなりC53が日本製唯一の3シリンダー式となった。
元機関士でC53の運転中時速140kmを出した(日本最速)と主張している人がいるらしいが真偽は不明である。
梅小路蒸気機関車館で静態保存されるC53 45
国鉄は1950年になってから電化がなかなか進まない一方、古い蒸気機関車が老朽化してきて機関車不足が発生スト考えていた。
そこで新しい蒸気機関車を作ろうと計画されたのがC63形蒸気機関車だった。
いまさら新しい蒸気機関車が必要だったのか分からないが、1955年に計画は始まった。
C62の次に計画された蒸気機関車なのでさらに大型で日本最大の蒸気機関車になるはず・・・と思ったのだが、実は地方ローカル線で使用する貨客両用機として使用するためにC58形をベースに設計が為されているためそれほど大きくは無い。
全長は18545mmでC58よりはやや大きい程度。動輪直径が1520mm。
しかし、ボイラ圧力はC62の16kg/c㎡から18kg/c㎡へ引き上げられ日本の蒸気機関車の中では最大になった。
そしてC51などの老朽化した機関車を駆逐する予定であった。
1956年、設計図面が完成、あとは製造命令を待つのみとなった。
ところがやはり蒸気機関車は必要ないんじゃ無いかと言う意見が出てきたため、C63の製造は見送られてしまった。そのうちに電化・ディーゼルかがどんどん進み国鉄は1959年に動力近代化計画が発表されてしまった。つまり蒸気機関車の全廃計画である。
この計画が1960年から実施されてしまい、新たな蒸気機関車が製造される可能性は皆無になった。C63が製造されることはもう無い。
実物のC63は1両も作られなかったけれど1/5のライブスチームが国鉄郡山工場(現在の郡山総合車両センター)で製作されている。他にも梅小路蒸気機関車館にナンバープレートと模型がおいてある。
他にも鉄道模型が発売されている。
そこで新しい蒸気機関車を作ろうと計画されたのがC63形蒸気機関車だった。
いまさら新しい蒸気機関車が必要だったのか分からないが、1955年に計画は始まった。
C62の次に計画された蒸気機関車なのでさらに大型で日本最大の蒸気機関車になるはず・・・と思ったのだが、実は地方ローカル線で使用する貨客両用機として使用するためにC58形をベースに設計が為されているためそれほど大きくは無い。
全長は18545mmでC58よりはやや大きい程度。動輪直径が1520mm。
しかし、ボイラ圧力はC62の16kg/c㎡から18kg/c㎡へ引き上げられ日本の蒸気機関車の中では最大になった。
そしてC51などの老朽化した機関車を駆逐する予定であった。
1956年、設計図面が完成、あとは製造命令を待つのみとなった。
ところがやはり蒸気機関車は必要ないんじゃ無いかと言う意見が出てきたため、C63の製造は見送られてしまった。そのうちに電化・ディーゼルかがどんどん進み国鉄は1959年に動力近代化計画が発表されてしまった。つまり蒸気機関車の全廃計画である。
この計画が1960年から実施されてしまい、新たな蒸気機関車が製造される可能性は皆無になった。C63が製造されることはもう無い。
実物のC63は1両も作られなかったけれど1/5のライブスチームが国鉄郡山工場(現在の郡山総合車両センター)で製作されている。他にも梅小路蒸気機関車館にナンバープレートと模型がおいてある。
他にも鉄道模型が発売されている。
