おっさんトリオで鎌倉ハイキング その4 | バザラスからのアジアン紀行

おっさんトリオで鎌倉ハイキング その4

ここは、鎌倉。

 

先月初めのハイキング。

 

還暦越えの、おっさん3人で

お色気なしです(笑)。

 

ここは、鎌倉と逗子市の境界。

 

以下、逗子市のHPより。

 

「治承4年(1180年)に源頼朝が居を

 構えた鎌倉は、南方を海に、それ

 以外の三方を丘陵に囲まれた要害

 の地でした。

 

そのため、陸路を鎌倉に入ろうとすると、

その多くは細くて急な尾根越えの山道か、

危険な波打際の崖下の道であったと思

われます(古代の「古東海道」がこの地域

を通っていたと考えられますが、具体的な

ルート等は明らかになっていません)。
 

13世紀前半、執権北条氏の権勢が確立

する頃になると、鎌倉も政治経済の拠点

として発展しますが、頻繁となる物資や

人々の往来にとって、急峻な尾根越え

の交通路は大きな妨げとなりました。

 

その難渋を取り除くため道幅を広げ路面

を切り下げるなどして、後に「鎌倉七口」

などと呼ばれる切通路が整備されたと考

えられます。


名越切通は、鎌倉と三浦半島とを結ぶ

要路の一つです。

 

周辺には、切通の防衛にも関係すると

考えられる平場や切岸、やぐらや火葬跡

など葬送に関する遺構も多く分布していて、

中世都市の周縁の歴史的景観を良く残し

ています。

 

昭和41年(1966年)に国史跡に指定されました

(昭和56、58年に主として逗子市域、平成20、

21年に鎌倉市域が追加指定)。

 

「まんだら堂」の名が確認できる最も

古い文献は、文禄三年(1594年)の

検地帳です。

 

しかし、そこには畠の地名として記され

ているのみですので、その頃にはすで

に堂舎と呼べるような建物はなかったと

思われます。

 

「まんだら堂」がどんな建物だったのか、

いつまで残っていたのかなど、詳しいこ

とは全くわかっていません。

 

まんだら堂やぐら群は、一つひとつは

2m四方程度と小規模で構造も単純な

ものが多いですが、150穴以上の存在

が確認されている有数のやぐら群で、

これだけまとまったやぐらを良い状態で

見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも

少なく、たいへん貴重です。

 

やぐらの中に並ぶ五輪塔のほとんどは

後の時代に動かされていますので、現

状が中世の姿そのままとは言えません

が当時の姿もほぼ同様であったと思わ

れます。

 

まんだら堂やぐら群の五輪塔は、主に

火葬した骨を納めるなどして供養する

ために建てられたもので、その対象は

武士や僧侶が多かったと考えられてい

ますが、経済力を蓄えた商工業関係者

なども含まれていたでしょう。

 

ここは、日蓮宗法性寺。

 

日蓮(1222~1282年)が白猿に

導かれて難を逃れたと伝わる

岩窟。

 

岩窟内です。

 

以下、詳しく。

法性寺は、日蓮宗鎌倉妙本寺末寺で、

元享元年(1321年)の創建とされてい

ます。

 

寺伝によれば、日蓮上人が文久元年

(1861年)に鎌倉松葉ヶ谷の草庵を他宗

の僧に焼き討ちされてここまで逃げ延び

たとき、3匹の白い猿が出て食物を与え

るなどして日蓮の世話をし、恩に感じた

日蓮は、ここに寺を建てるように弟子に

頼んだと言われています。」

 

黒い物体にドキッとしましたが、

3匹の白猿ではなく、3匹の黒猫

でした(笑)。

 

つづく。