先生 | バザラスからのアジアン紀行

先生

俺が子供の頃、

 

学校の先生と言えば、

親どころか、地域全体

から一目置かれる存在

だった。

 

先生達の方にも、勉強は

ともかく、子供達を人間とし

て真摯に育て上げるという

自覚があったように思う。

 

その後、受験戦争が全国的に

広がり、塾が出来だして、人間性

重視よりも成績重視の教育方針に

変わって来た。

 

同時進行的に、子供達の人権重視が

過大となり、親達が教育の場に過剰介入

しだしてから、先生達は学校、生徒、親達

への対応で、四面楚歌的状況に置かれ、

過労も重なって、先生の牙城も崩落寸前だ。

 

一方、教育者以外で先生と

呼ばれる職業人は、その資質に

欠けていても、職業的地位だけで

先生と呼ばれている。

 

政治家、弁護士、会計士・・・・。

 

彼らは、先生と呼ばれなければ

不機嫌になる。

 

庶民は下級国民で、自分達は

上級国民とでも思っているから

だろう。

 

先生と言われて悦に入ってる

奴らも下等な連中だが、それを

言う我々の側も下等化している。

 

以前から言っているように、下等な

被選挙人と下等な選挙人が選挙

を行えば、更に下等な政治家を生む。

 

毎日の政治関連ニュースを見て

いれば、一目瞭然だろう。

 

選挙の度に、選挙権の行使

こそがより良い政治を生み出す

民主主義の要であると、思考停

止的に連呼して来た有識者が、

 

最近になって漸く、日本の議会制

民主主義制度を、選挙を含めて

見直さなければならないと言い

出してきた。

 

今回の東京都知事選における

掲示板ジャック&NHKの政見放送

ジャックを見て更に選挙制度改革

の必要性を痛感しただろう。

 

我々が採用している西欧型の

議会制民主主義は、政治イデ

オロギーを形式化した一形態

に過ぎず、

 

経年劣化、形骸化、腐敗化している

現状から、新たな形に改良するのは

可能な政治形態だ。

 

既存の政治形態に安住している

政治家は総て糺問されねばなら

ないが、選挙には期待できない

ので、効果的直接行動が

必要だろう。

 

その為には、我々自身が既存の

政治システムを超える道を

見つけ出す頭脳を働かせ

ねばならないのだ。