エノケン その2 | バザラスからのアジアン紀行

エノケン その2

ここは、国立演芸場。

 

エノケンの展示会が開催されていた。

 

以下、追悼の森というHPより。

「エノケンの愛称で広く親しまれた喜劇俳優の

 榎本 健一(えのもと けんいち)さんが

1970年(昭和45年)1月7日午後2時50分、

肝硬変のため東京都千代田区の駿河台

日本大学病院で死去した。

 

65歳だった。

人物/略歴

 

榎本 健一(えのもと けんいち、1904年10月11日

~ 1970年1月7日)

 

東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)に生まれる。

 

俳優、歌手、コメディアン。

 

当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの

愛称で広く全国に知られていった。

 

「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界

大戦期前後の日本で活躍した。


浅草オペラの「根岸大歌劇団」の俳優・

柳田貞一に弟子入りした。

 

1922年(大正11年)3月20日、「根岸大歌劇団」

がビゼーのオペラ『カルメン』を初演、

そのコーラスでデビューしている。


1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって

壊滅的な被害にあった浅草を離れ、当時流行の

最先端であった活動写真(映画)の撮影所がある

京都嵐山で喜劇的な寸劇を仲間らと演じていた。


1929年(昭和4年)、古巣浅草に戻り

「カジノ・フォーリー」に参加。

 

エノケンを中心とした新生カジノ・フォーリーは、

都会的なギャグとコントのセンスで一躍インテリ層の

人気を集め、連日満員の大入りとなり、浅草の

人気者となった。


その後、ジャズシンガーの二村定一と二人座長と

なった「ピエル・ブリヤント」を旗揚げ。

 

座付作家に菊谷栄、俳優陣には、中村是好、

武智豊子、師匠である柳田貞一らを抱え、

これが後に「エノケン一座」となる。


人気に目をつけた松竹はエノケン一座を破格の

契約金で専属にむかえ、浅草の松竹座で常打ちの

喜劇を公演し、下町での地盤を確固たるものとした。


一方、東宝は、古川緑波の声帯模写などの素人芸に

目を付け、活動弁士の徳川夢声や生駒雷遊らと

「笑の王国」を旗揚げさせ、有楽座でモダンな喜劇の

公演を旗揚げし、「下町のエノケン、丸の内のロッパ」

と並び称せられ、軽演劇における人気を二分した。


終戦後、笠置シヅ子がエノケンの相手役を務めたが、

同コンビは有楽座の舞台を連日満員にし、映画でも

『エノケンのびっくりしゃっくり時代』『歌うエノケン捕物帖』

『エノケン・笠置のお染久松』などがヒット作となった。

 

舞台で孫悟空を演じた際に、如意棒を左足

に落としたことが原因で脱疽を発病。

 

1952年(昭和27年)、再発したのは右足で、

足の指を切断する事になった。

 

46歳で紫綬褒章を受章した。


1962年(昭和37年)には病魔が再発し、

右足を大腿部から切断。

 

失意から自殺未遂を繰り返したが、後妻の献身的

な看護と、病床を訪ねた喜劇王ハロルド・ロイドの

励ましにより、生きる気力を取り戻した。


その後、精巧な義足を得て、舞台・映画に復帰。

 

榎本はその後、この義足にいろいろ仕掛け

を施して、義足を使った芸も試している。


晩年は、舞台活動も少なくなったが、テレビドラマ

「おじいちゃま、ハイ」や歌番組出演、「渡辺のジュースの素」

「サンヨー・カラーテレビ」などのコマーシャルソング

で話題を集めた。

 

1970年(昭和45年)の元旦に激しく体調を崩した

ため周りの者の勧めもあり神田駿河台にある

日大病院に緊急入院、3日後の1月4日には

昏睡状態に陥り、更に3日後の1月7日の午後

2時50分頃に肝硬変により死去した。

 

享年65歳。」

 

俺は、エノケンをTVでしか見たこと無いが、

喜劇を演じながらも、鬼気迫る迫力に

圧倒される。

 

今のお笑い芸人の芸とは、雲泥の差がある。