レゲエがUNESCOの無形文化遺産に登録される その2 | バザラスからのアジアン紀行

レゲエがUNESCOの無形文化遺産に登録される その2

 

 

ジャマイカの大衆音楽、レゲエの誕生…
ソース: jamaica-gleaner.com
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レゲエという音楽の名称はおよそ1960年以降のジャマイカ音楽

の総称、そしてジャンルとして多くに受け入れられてきたが音楽

とともに生き、その変化を見てきた者にとってレゲエはいくつもあ

るジャマイカ音楽の種類の一つにすぎない。

 

 

レゲエはスカ、ロックステディ、ダンスホールと違い、1967年後期

から始まった特定の時期を占めた。1960年以降のジャマイカンに

おけるポピュラーミュージックは1962年から1966年のスカ、1966年

から67/68年のロックステディ、1968年から1983年のレゲエ、そして

レゲエから生まれた流行のビートとして認識されているダンスホール

などおおよそ4つの時期に分けることができる。


しかしジャマイカ音楽において「ある特定」の時期は音楽学者にたび

たび見逃されてきた。それは私がプレ・スカ期と呼んでいるもので、

それ以前にジャマイカの奴隷植民地制度によって植えつけられたと

されるカリプソの一種と言われたメント(およそ1951年から56年)が

ジャマイカを占めていた時期に続くものである。

 

1957年から60年の間、ジャマイカを占めたのはアメリカのブルース

から派生したリズム・アンド・ブルースやブギーの録音で、1950年代

の中期にはジャマイカのダンス・ホールで大流行していた。

 

アメリカのブルースのレコードが減るようになり、選択肢のないジャマイカ人

のプロデューサーやプロモーター、サウンドシステムの運営者たちは自分

たちの産業を生かすためにアメリカの楽曲と同じ雰囲気を持った自らの録音を制作するようになった。

 

ジョー・ヒッグス(Joe Higgs)とロイ・ウィルソン(Roy Wilson)による

‘Oh Mannie Oh’や‘How Can I Be Sure’、ローレル・エイトキン

(Laurel Aitken)による‘Boogie In My Bones’や‘Little Sheila’、

アルトン・エリス(Alton Ellis)とエディ・パーキンス(Eddie Parkins)に

よる‘Muriel’、ザ・ジャビング・ジュニアズ(The Jiving Juniors)に

よる‘Lolipop Girl’といった録音がジャマイカの音楽産業の誕生と

されるこの時期の人気録音の一例に挙げられる。

 

ジャマイカ音楽のビートが初めてメントのリズムから変化したのは

バニー・アンド・スカリー(Bunny And Skully)が‘Another Chance’を

録音した時で、スカリー本人は1953年から1954年の間に録音が行

われたと語っている。

 

ジャマイカ産のリズム・アンド・ブルースやブギーのすぐあとに続き、

こういった音楽はスカとして知られる音楽へと進化した。

 

そうしてジャマイカのポピュラー・ミュージックであるレゲエと

ダンスホールのビートは絶頂に達し、いくつかの変動を経た。

こういった変化はレゲエ・ミュージックに大きく影響し国際的な

現象にまで成長した。

 

ボブ・マーリー(Bob Marley)、ジミー・クリフ(Jimmy Cliff)、デニス・ブラウン

(Dennis Brown)、ピーター・トッシュ(Peter Tosh)らがこの‘レゲエ’現象

を確立する重要な役割を果たした。

 

1968年に発表されたボブ・マーリーの‘Trench Town Rock’、翌年に

発表されたデニス・ブラウンの‘No Man Is An Island’はジャマイカ/レゲエ

音楽の方向性を示し、ジミー・クリフの‘The Harder They Come’は

同タイトルの映画と一緒にリリースされ音楽の世界地図でジャマイカと

いう場所を知らしめた。

 

見せかけではなく説得力があり、自然な緊迫感のあるビートを持っ

たレゲエ・ミュージックはレゲエの王と称されるボブ・マーリーがプ

ロデューサーのクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)のために

6枚以上の一流アルバムを制作したことに後押しされるよう、

1970年代の間にレゲエは世界中の大陸で飛躍的に成長した。

 

ジャマイカではその影響が感じられた録音にザ・ケーブルスの

‘Baby Why’やザ・ヘプトーンズ(The Heptones)の‘I Shall Be Released’、

アルトン・エリス(Alton Ellis)の‘Breaking Up’などが挙げられる。

 

何が最も興味深いかと言うと自らが最初のレゲエ楽曲を録音した、もしくは

レゲエのビートを創ったと主張する多くのアーティストとプロデューサーが

存在することである。あらゆる点から考えるとヴォーカル・グループのメ

イタルズ(Maytals)のトゥーツ・ヒバート(Toots Hibbert)が「レゲエ」とい

う名を歌の中で挙げたと考えられているようだ。

(本人は発案者だと主張したことはないが…)

 

その一方で、多くの音楽史学者たちはラリー・アンド・アルヴィン

(Larry and Alvin)が1968年にクレメント・ドッド(Clemnt Dodd)のもとで

録音した‘Nanny Goat’がレゲエを真に感じることが出来る最初の

録音だと認め、ある情報によればギターにはディレイとオルガンは

シャッフル調が上手く融合していると述べている。

 

しかし、ある意味でレゲエはこれまでのジャマイカにおける大衆音楽、

すべての形式を混ぜ合わせている…スカのリフ、遅くなったロックステデ

ィのベースライン、メントの演奏方法など。‘Nanny Goat’のプロデューサー

である(Clemnt Dodd)はレゲエのビートでディレイなどの数少ない小さな

機材が使われ始める前にイギリスから戻ったことを述べていて、その

影響は‘Nanny Goat’のビートに聞くことができる。その一方、シンガーの

ストレンジャー・コール(Stranger Cole)がプロデューサーのバニー・リー

(Bunny Lee)のもとで録音した‘Bangarang’を彼は最初のレゲエ楽曲

だと主張していて、プロデューサーのクランシー・エックルス(Clancy Eccles

)は自身がレゲエのビートを制作し始めたと主張している。

 

そういった楽曲の中で明確なレゲエのビートを持った作品の一つに

1965年スタジオ・ワンが制作‘Heavenless’が挙げられるが、これま

でにこの録音が最初のレゲエ楽曲だと言及されたことはない。

 

多くの音楽史学者はレゲエの誕生は存在していたロックステディのビートを

実験的に扱ったことで生まれた自発的な動きだとする。

 

その一方でロックステディから何かしらもっと活き活き、ワクワクする

ビートへと変化させるために行った一部のミュージシャンたちによる

故意的な試みだったと主張する他者もいる。ドッドやデューク・リードの

ためにいつも変わらず働き、いつも決まったミュージシャンを使えること

ができなかったエックルス、リー・スクラッチ・ペリー(Lee Scratch Perry)、

バニー・リーといった新しいプロデューサーたちによってこの発展は押し進

められた。

 

彼らは比較的経験の少ないミュージシャンを集め、彼らが何か違ったこ

とを試し、知らず知らずに完全なる新しいリズムを創り上げたのかもしれない。

 

現在、ダンスホールのビートが盛り上がりを見せる中でも、真のレゲエは

重要な力として現代に適用し続けている。レゲエという現象の重要さは

音楽愛好家たちが毎年7月1日をインターナショナル・レゲエ・デーと定め

ていることが証明している。

 

*この記事は、レゲエ ワールド ニュースから転載しております。

*画像は、Google画像検索から無断拝借しております。

  悪しからず。