河村尚子 ピアノ・リサイタル シューベルト プロジェクト第2夜 (全2夜) | ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

(9月13日・紀尾井ホール)
前半は

《楽興の時》第3番D780/3 Op.94-3
《3つの小品》より第3番ハ長調D946/3
ピアノ・ソナタ第20番イ長調D959

以上3曲は続けて演奏され、関連性を持たされた。後半の意図はわかったが、前半はわからず。

 

「ピアノ・ソナタ第20番イ長調D959」第1楽章は、淡々と進むように思えた。しかし、第2楽章中間部の3連符、32分音符、16分音符、クロマティック・スケール(半音階)の動きはまさに狂気!休止を挟みながら鍵盤を叩きつけるように弾く和音はすさまじい。

第3楽章の歌は河村に一番合っていた。途中から急な狂気に至り、また歌に戻るが、もはや前の自分ではない。これから自分はどうなるのだろう?というシューベルトの不安感が滲み出る。コーダの度重なる休止は恐ろしい。聴き手も深い穴に落ち込んで行くようだ。最後は第21番のコーダと同じように、どうにでもなれ、と終わる。しかし、そこでも何か名残惜しそうだ。聴き終わった後の感想は「河村尚子恐るべし!」

 

 

即興曲集より第3番変ト長調D899/3 Op.90-3
ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D960

後半も以上2曲が続けて演奏された。河村の意図は左手が奏でる不気味な低音にあったと思う。即興曲は抒情的に歌い上げる演奏が多いが、河村は左手の低音を強調する。これまでこの音はあったとしても、ここまで響かせるピアニストはいなかった。ソナタ第21番の第1楽章には、その低音がトリルとして出てくる。美しく歌う主題とは対照的で、その対比は天国と地獄、生と死の対立して響く

河村は第2楽章でも左手の低音を強く打ち出す。左手は右手が歌う旋律を修飾するように3オクターヴの跳躍で美しい音を一音一音奏でるが、同時にその左手が生む低音が常に死の恐怖を駆り立てる。右手の美しい旋律、歌はペダルを使わず、短いフレーズでとぎれとぎれに歌われる。それはやっとの思いで生き続けるシューベルトを表すようで、聴いていてもつらい。

 

第3、第4楽章はいつもの河村尚子らしく、闊達によどみなく弾いていく。第3楽章トリオには深遠な何かがあると思うけれど、そうした要素は河村からは聞き取れなかった気がする。

第4楽章は、違和感があった。快活に進んでいくが、この楽章はシューベルトが天国を夢見て書いたと思う。浮世の束縛から完全に解き放たれシューベルトが自由自在に遊び、叫び、発散しているような解放感にあふれてほしいが、そうした印象は受けなかった。

 

アンコールは《楽興の時》第6番と第2番。プログラムが円環するようになっていた。

 

今夜の河村尚子のシューベルトは狂気と死の印象がぐいぐいと迫ってきて、ちょっと怖いものを感じた。