下野竜也 読響 グバイドゥーリナ「ペスト流行時の酒宴」(日本初演)のインパクト | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

(1月15日・サントリーホール)

  グバイドゥーリナ「ペスト流行時の酒宴」を聴いて、最近読んだばかりの、現代音楽作曲家、望月京(もちづき みさと)が、自著「作曲家が語る音楽と日常」(海竜社刊)で述べた言葉を思い出した。

 

 『前衛とは要するに、「なんだこりゃ!?」という未知のエネルギーを秘めた思想だ。』

 

 今日聴いたグバイドゥーリナ(1931-)「ペスト流行時の酒宴」は、まさにそういう作品だった。日本初演に立ち会う興奮を久しぶりに味わった。

この刺激的で、これまで聴いたことのない音楽の持つ引力の凄さ、迫力、面白さ。なによりも聴く者に「恐怖」を呼び覚ます衝撃の強さとエネルギーは、いったい何なのだろう?

 16回も続く切り裂くような不穏なモティーフが次々と押し寄せる恐怖感は、戦慄すべき衝撃があり、例えはあまり適切ではないが、9年前の東日本大震災とそれに続く福島の原発事故の際の心理状態を呼び覚ました。

 

 そういえば、ネット上で著名な地震学者が、最近の地殻変動が東日本大震災の2か月前によく似ていると不安な予想を述べていたのも気になる。グバイドゥーリナの作品のもたらす恐怖感は、現実の大災害の体験を呼び覚ますインパクトがあった。

 読響は、最初の出だしの金管のコラールでつまずくという傷もあったが、演奏が熱く盛り上がるにつれ、楽員の集中はどんどん高まり、あの記念碑的な2017年のメシアン「アッシジの聖フランチェスコ」の名演を彷彿とさせるものがあった。

 

 この作品を取り上げたのが下野だとすれば、彼の着眼力と、冒険的な企画を受け入れた読響に敬意を表したい。

 

 今日のプログラムには、他にも日本初演があった。
モートン・フェルドマン(1926-87)の「On Time and the Instrumental Factor」。8分ほどの短い作品。1969年の作品であり、短い素材を繰り返す手法や、響きは今や古典かもしれない。

 

 前半は、ショスタコーヴィチ(1906-75)「エレジー」から始まった。歌劇《ムツェンスク群のマクベス夫人》第1幕第3場でカテリーナが歌うアリアに基づき書かれた弦楽四重奏曲の弦楽合奏版(シコルスキ編曲)。ショスタコーヴィチの書く緩徐楽章のイメージがあり、第2ヴァイオリン首席とヴィオラ首席の二重奏部分は、オリジナルの弦楽四重奏曲どおりだと思うが、そこが最も美しかった。

 

 前半のもうひとつの大曲は、30分もあるジョン・アダムズ(1947-)の「サクソフォン協奏曲」。アメリカ東海岸のニューイングランドに生まれたアダムズは、祖父がビッグバンドの出演するダンスホールを経営、両親もアマチュアのジャズ・ミュージシャンという環境から、ジャズからの影響は計り知れない。この作品もいわば、ジャズサクソフォン協奏曲と言ってもいいくらい、ジャズのフレーズが満ち満ちている。

 

アルトサクソフォンを吹くのは上野耕平。上野の滑らかなフレーズ、正確な音程、どれほど速いパッセージも完璧に吹くテクニックはすごい。
 ただ、作品自体の印象を言えば、ジャズのアドリブをすべて譜面に起こし、そこに変拍子のアレンジを施した、というもので、音楽的にはジャズのようでジャズとは違う、現代音楽のようで前衛らしくない、という中途半端な感想を持った。

 

 エリック・ドルフィー(学生時代にLP盤が擦り切れるくらい聴いた私が大好きなミュージシャン)を思わせる、わめきたてるようなフレーズがサクソフォンに出る第1楽章のクライマックスは面白いと思ったが、正直作品全体のインパクトは大きくない。

 

 せっかくジャズ風に書くのなら、思い切ったアドリブ=カデンツァを入れるとか、ビッグバンドのソロの応酬のように、サクソフォンがオーケストラの金管や木管とバトルを繰り広げたら、もっと面白いのでは、と思ってしまった。多少それらしい部分はあったが、目立つほどではなかった。

 

今日のサントリーホールは業界の関心の高さを示すように、多数の音楽評論家、音楽ジャーナリストが詰めかけていた。

グバイドゥーリナが終わったあと、現代音楽のコンサートとは思えないほど客席を埋めた聴衆から巻き起こった拍手は熱狂的で、「ペスト流行時の酒宴」が与えたインパクトがいかに大きかったかが如実に表れていた。