「タンスマンへの感謝と抉別」 オーケストラ・ニッポニカ 野平一郎指揮  松平頼則とタンスマン | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。


721日、紀尾井ホール)

プログラムの趣旨は日本を代表する作曲家の一人松平頼則(まつだいらよりつね・1907-2001)の初期管弦楽作品と、1950年以前の松平頼則に決定的な影響を与えたポーランド生まれの作曲家アレクサンドル・タンスマン(1897-1919)の作品を紹介すること。

 

松平頼則は「パストラール」(1935年)がチェレプニン賞第2席を受賞。「南部民謡集」(1928-36)がヴァインガルトナー賞、「ピアノとオーケストラのための主題と変奏」(1951)がISCM音楽祭入賞。雅楽と十二音技法と現代の管弦楽法を組み合わせた作品を発表した。

 

アレクサンドル・タンスマン(1897-1986)はポーランド生まれ。パリに出てラヴェルと親交を結び、六人組(デュレ、オネゲル、ミヨー、タイユフェール、オーリック、プーランク)と親しくなり、バルトーク、ガーシュウィン、プロコフィエフ、シェーンベルク、ストラヴィンスキーらとも接した。指揮者ウラディミール・ゴルシュマンやセルゲイ・クーセヴィツキーはタンスマンを擁護、紹介した。ユダヤ人でもあり、1941年チャップリン、トスカニーニ、クーセヴィツキー、ゴルシュマンらの協力でアメリカへ亡命。戦後はパリに戻りそこで没した。日本には1933年来日。2週間の滞在の間に日本の作曲家と交流し、その中に松平頼則もいた。

 

 「タンスマンへの感謝と抉別」は松平頼則の言葉で、1950年松平が作曲法を転換していく際に書いたタンスマンに関する論文の中で使った。

 

1曲目タンスマン「フレスコバルディの主題による変奏曲」(1937年)はセントルイス交響楽団の委嘱で書かれ、ウラディミール・ゴルシュマンが初演した。イタリアの作曲家フレスコバルディ(1583-1643)の主題と4つの変奏からなる。最後の変奏のフーガは創造性があった。

 

2曲目は松平頼則「ピアノとオーケストラのための主題と変奏」(1951)。ISCM(国際現代音楽協会)音楽祭で入賞。カラヤンは1952年ウィーン交響楽団でこの曲を指揮、1954年の初来日ではN響の定期演奏会で指揮した。カラヤンが指揮した唯一の日本人作曲家作品でもある。ピアノは秋山友貴。野平一郎の作曲の弟子でもあり、出演は野平の推挙によるもの。

 

作品は雅楽の盤渉調(ばんしきちょう)越天楽を主題とした変奏曲。盤渉とは日本音楽の音名。西洋音楽ではロ音にあたる。主題は越天楽。第3変奏には十二音技法が使われる。第5変奏はジャズを思わせる。1951年という戦後間もない時期であり、アメリカ文化の影響を感じさせた。篳篥(ひちりき)と龍笛(りゅうてき)はフルートなど木管楽器に、和音を奏でる笙(しょう)はヴァイオリン群へ、と巧みに西洋楽器へ振り分けられ、変奏になるとピアノが積極的に介入し、一気に和と洋が融合する。日本古来の音楽と西洋音楽の融合として成功した最良の作品のひとつではないだろうか。カラヤンが魅せられた理由もわかる気がした。

 

Youtube音源↓

https://www.youtube.com/watch?v=GZ29GtWsAIc

 

松平頼則「パストラール」(1935年)は構造もシンプルで、習作の印象が強かった。

 

 最後にタンスマン「交響曲第2番イ短調」(1926)が、日本初演(1933926日、新交響楽団)以来、86年ぶりに演奏された。

 力作であり、第2楽章の哀愁と抒情、活力に満ちた第4楽章など魅力はあるが、正直なところ何度も聴きたくなるような決定的な核心部分が不足しており、忘れられた理由がわかるように思った。オレグ・カエターニがメルボルン交響楽団を指揮した音源があるので(CHANDOS)、機会があればぜひ聴いてみてほしい。

 

 野平一郎オーケストラ・ニッポニカは力演だった。紀尾井ホールに音が充満していた。

 

年に二度開催されるオーケストラ・ニッポニカの定期演奏会で何がすごいかと言って、プログラム解説の充実ぶりは、チケットについてくる無料プログラムとしては日本国内で最も詳細ではないだろうか。資料的な価値が高く、永久保存版としておきたいほど、丁寧に書かれている。毎回日本の作曲家や作品に焦点を当てる方針のオーケストラであり、市場に資料がすくないこともあり、貴重な冊子だと思う。読むたびに関係者の努力と熱意にいつも打たれる。