コルネリウス・マイスター 読響 マーラー交響曲第3番 | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

1212日、サントリーホール)
 マーラーがマイスターの指揮する交響曲第3番を聴いたらどう思うだろう。「若いの、なかなかやるじゃないか。そうそう、こういうクールな演奏が僕の好みなんだ」と言うかもしれない。

 

 マイスターは非凡な才能の指揮者だ。この曲の構造が透けて見えるような。明晰な構築力。柱がしっかりとして揺るぎがない。ダイナミックの幅を大きくとり、読響の金管の力を最大限引き出す。弦は濁りがない。演奏自体の切れ味はするどく、力強いが、それだけではなく、第1楽章提示部後半の行進曲風の部分では、木管と弦を軽やかに歌わせ、爽快感もある。読響を束ねる統率力は、37歳という若さにしては、カリスマ性すら感じさせる。

 しかし、ひとつだけ足りないものがある。「情感」だ。マイスターの沈着冷静な指揮からは、喜怒哀楽の感情が薄く感じられる。磨き上げられた音響として、完全無欠な構造として、見事な演奏だが、私自身の心に訴求してくる情感は少なかった。

 それは、第4楽章で藤村実穂子の深々としたアルトが入っても、第5楽章でTOKYOFM少年合唱団と、フレーベル少年合唱団、新国立劇場合唱団(女声)が加わっても変わらず、マイスターの音楽は、どこか客観的だ。

 マイスターの指揮で第6楽章を聴いていると、ジョナサン・ノットがこの楽章について語った言葉が思い出される。『希望を抱いたものの、結局かなわない。悲しい音楽、深い憂愁を帯びた幕切れ』。肯定的に、前向きに行こうとする力を引き戻すような、満たされない何かがある。マイスターの指揮は、その感情を呼び覚ましてくれた。

 

 読響は熱演だった。カンブルランとのメシアン「アッシジの聖フランチェスコ」で高い壁を乗り越え一回り大きく成長したことを感じさせる、磨き上げられた演奏を聴かせてくれた。
写真(c)コルネリウス・マイスター(c)読響