桐榮哲也ピアノ・リサイタル(11月20日、トッパンホール) | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。


 

桐榮哲也ピアノ・リサイタル(1120日、トッパンホール)

 桐榮哲也(とうえいてつや)の演奏を聴くのは2度目。今回も作品に真摯に向き合い、外連味や自己を前面に出すことなく、譜面を通して作曲者の意図に忠実に沿う姿勢に打たれた。

 折り目正しく、考え抜かぬかれた演奏であるが、それが長所とも短所ともなることが、生のコンサートの難しさでもある。
 

 良い面として、出たのはシューマン「幻想曲」第3楽章。シューマンのあふれるほどの感情が、桐榮の抑制のきいたピアノと絶妙のバランスがとれ、格調高かった。またベートーヴェン「幻想曲」は、思い切りの良いピアノが、ベートーヴェンの断固とした強さを表現し、中間部分でのよく歌う演奏は、作曲者のロマン性を余すところなく伝えていた。
 ドビュッシー「練習曲」の3曲、とくに第4番の低音のやわらかな響き、第5番の柔軟な右手が印象的。ラフマニノフ「楽興の時」第1曲のきめ細やかな音、第4曲の盛り上げとバランスの良さは素晴らしい。

 

 一方で、時にもっと大きな表現、感情の発露があってもいいのでは、と思わせる面もあった。例えば、シューマンでは第1楽章の陰影不足、第2楽章の情感。ラフマニノフは第2曲の技術以外の表現、第3曲のロマン性不足、第5曲のノクターンのような曲想は桐榮に合うと思って期待したが、意外にあっさりとしていた。第6曲はよくピアノを鳴らしたが、もうひとつ何かが足りない。ファンタジー、霊感のようなものがほしい。
 

 こうした点は、桐榮のまじめに考えすぎる姿勢がブレーキとなり、時に迷路に入り込んでしまうからではないか、と想像する。

プレッシャーから解放されたのか、アンコールで弾いたスクリャービン「練習曲OP.8-12」の、鳥のように自由に大空を飛ぶ演奏は、桐榮の本来持っているはずの、大きな表現力をうかがわせた。すべての演奏をこのように行うことは、作品の様式感を壊すかもしれないが、失敗を恐れず、チャレンジしてほしい。

写真:(cYoshinobu Fukaya/aura.Y2