小澤征爾「私の履歴書」 「32年ぶりのN響」と「ウィーン国立歌劇場」 | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

毎日読むのが楽しみだった日経朝刊「小澤征爾の私の履歴書」が昨日で終わった。これまで「ボクの音楽武者修行」以外自伝はなく(対談や語りおろしはあるかもしれないが)、当人あるいは限られた人しか知らない裏話が数多く書かれた今回の連載は、従来の小澤に関する出版物とは一線を画するものがある。連載の中で触れられたコンサートの中で、幸運にも自分が居合わせた2つの思い出深い演奏会があった。


ひとつは「N響で32年ぶりタクト」の見出しの1995123日サントリーホールでの歴史的なコンサート。タイトルに「病気やケガで演奏できなくなったオーケストラの楽員のために」と銘打たれていたので、チャリティという場を設定することによりNHK側から小澤に和解のアプローチをしたのだろうと当時は思っていた。

今回明らかになったのは、NHKの建物に近づくのも嫌だったという小澤をロストロポーヴィチが「サイトウ・キネンを日本でやっているのだから、いつまでもN響とけんかしていてはだめだ」と説得して実現したということ。このあとNHKは小澤征爾に急速に接近、テレビ放映の機会がどんどん増えていったが、このコンサートがきっかけだろう。

チェロの首席に徳永兼一郎さんが座っていたことは記憶から消えているが、病をおしての出演だったことを初めて知った。


当日のサントリーホールはある種の緊張とともに華やいだ雰囲気が漂っており、武満徹さんや大江健三郎さん、大町陽一郎さんを見かけた。

何より驚いたのはいつもと違うN響の音。バルトークの「オーケストラのための協奏曲」は、これまでのN響からは聴いたことのない柔らかくピュアな響きに満ちており、ピアニシモからフォルティシモまでのダイナミックが大きく音楽が非常に豊かだった。

ロストロポーヴィチとのドヴォルザークのチェロ協奏曲は傷があったが前に進む力強さが無比であり、とにかく熱い演奏に圧倒された。

阪神淡路大震災の直後だったため、バルトークの前にバッハのG線上のアリアを指揮。ドヴォルザークの後はバッハの無伴奏チェロ組曲からサラバンドがロストロポーヴィチによって弾かれ、拍手のない静かな幕切れとなったのが印象に残っている。

コンサートの後は興奮していて、全日空ホテルのラウンジで一息入れたことを思い出す。

小澤&N響は、このあともう一度NHK音楽祭で共演。「運命」などを演奏したが、このときはリラックスしたステージで、あのときのような緊張感はなかった。


連載29回目の「ウィーン国立歌劇場」。20021112日、音楽監督就任のお披露目のオペラ、ヤナーチェクの「イェヌーファ」の公演に立ち会えた。この日は初日ではなく2日目だったが、ついにウィーン国立歌劇場で指揮をする小澤征爾を、それも音楽監督就任の記念すべき公演を観られるということで心は躍っていた。


席は前から二列目の中央。観客の拍手で登場した小澤征爾が目の前にいる。日本人がウィーン国立歌劇場の音楽監督になり拍手を浴びる姿を見るのは誇らしい。

前奏曲が始まる。いつものように指揮棒を持たず暗譜で指揮する小澤征爾の指先が美しく輝いているように見えたのは中学生以来の小澤ファンである自分の夢が実現したせいかもしれない。予習はしていたもののチェコ語はわからない。訳詞が英語で前の座席の背に出るのは有難かった。

アグネス・バルツァは初日ほどの出来ではなかったとプレミエを聴いた方から聞いたが、公演後のブラヴォは大変なもので、それは小澤に対して特に大きかった。最後は多くの聴衆とともに自分も立ち上がって拍手を贈った。

小澤征爾は「イェヌーファ」をすでにサイトウ・キネン・フェスティバルでも指揮しており、口うるさいウィーンの聴衆に対してモーツァルトやイタリア・オペラではなく、比較される機会が少ない、チェコ語で歌われるヤナーチェクで勝負したことは正解だったと思う。小澤の指揮は音楽を完全に掌握した見事なものだった。


食道がんという大病を克服した小澤征爾の音楽は、明らかにこれまでと変わってきている。スケジュールに余裕ができ時間をかけてスコアを読みこむからだけではなく、アバドが語ったように、病を得て失ったもののかわりに内なる音楽を聴く耳を得ているのではないだろうか。今後の演奏会の一回一回が貴重だ。