広 0 ‐ 5 De

いつのまにか、階段の登り降りが
つらい体になってしまった・・ ( ´д`)


⑦ の つづき

初戦 (小勢同士の争い)で敗れた
尼子勢でしたが

いよいよ本格的に城攻めを行うべく
尼子本隊が風越山の本陣から

吉田郡山城の南西、わずか1㎞ほどの
距離にある青山と三井山

(総称は青三井山)に本陣を移し
湯原宗綱、湯(ゆの) 惟宗らは青山

高尾久友、黒正久澄、吉川興経らは
三井山に陣取った

これに対し、元就は
手薄となった風越山の陣を

中原善右衛門、井上長門守以下
780名の部隊で急襲して

残営を焼き払った


九月から始まった戦いも
すでに十二月となり

その間、尼子勢は
大軍を擁しながらも元就の策略や

伏兵を駆使した戦術に翻弄されて
未だ郡山城を落とせずにいた

ただ、兵力では
尼子方が圧倒的に有利であり

対峙するだけでも威圧感ハンパない!
という状況だったでしょう

それに、どんどん減っていく兵糧、、
こんな状態が続けば

今、毛利に味方してくれている
近隣の国人領主たちも

不安に駈られて
尼子方に走ってしまうかもしれません

郡山城から望む青山 (左)と三井山 (右)

元就も不安な気持ちで
この景色を眺めていたのかもしれない


そんな十二月三日の朝
郡山城の南東にある住吉山に

無数の旗が翻ったのです
それは、元就がかねて援軍を懇請していた

大内氏の旗印だったのです


⑨ に つづく

城跡巡り 173-⑧   ( ´Д`)
安芸高田市吉田町   吉田郡山城跡

⑥ の つづき



月山富田城を出発した尼子軍3万は
石見路をとり、赤名口から西進

江ノ川都賀の津を経て口羽、
川根、河井と通過して

風越山 (安芸高田市吉田町)に
本陣を置いた

毛利氏の本拠・郡山城とは
4㎞しか離れていない高い山である

詮久は、部下の湯原弥次郎ら
3000余騎を左翼

高尾久友、黒正久澄、
吉川興経らを右翼

石州路相合に別軍を留め
国司の白豆峠、会下谷方面にも

出兵して側背の警戒を行った
元就は、事態の重大さに鑑みて

日夜城兵を励まし
防戦の準備につとめた

また、宍戸元源は五竜城に籠り
孫の隆家 (妻は元就の二女・五龍の局)を

郡山城に入れ、天野興定も入城
福原広俊は鈴尾城の守備

援軍の小早川興景と
大内家臣・杉元相らは

坂、豊島に駐留した
その一方で元就は

急使を山口に派遣して
大内義隆の援助を懇請したが

困難なことは大内氏の軍勢が
到着するまでの間

大軍を目前に、郡山城を
もちこたえねばならないことであった

ここで元就が用いた策が「反間ノ策」
(敵の策謀を利用する)であった

毛利氏には、数年前から尼子家を出奔し
毛利家に仕官してきた

内別作 (うちべつさく)助四郎という
家臣がいたが、この者の前で

「もしあの場所を攻められたら
    我が軍は、ひとたまりもない」とか

苦手な陣形の話とか
布陣されたら困る場所とか、、

大軍を前にしてつい弱気になって
色々と話してしまったという

実は助四郎は尼子氏の間者 (諜報員)で
この情報はただちに尼子氏に伝えられた

ところが、元就は
助四郎が尼子の間者であることは

早くから判っていたらしく
最も守りやすい場所を

あたかも弱点であるかのように
吹き込んだり

自分が崩しやすい陣形を
苦手と信じさせたのである

戦いは双方の斥候戦をもって始まり
各地で激戦が繰り広げられたが

数で圧倒しているはずの
尼子勢が大苦戦

そう、尼子勢が
毛利のウィークポイントだと思い

攻めている場所は
毛利方の最も堅固な場所

ストロングポイントなのです
尼子方の部隊は

ことごとく敗退して
風越山の本陣へと撤退

しかし、戦っていたのは
尼子氏の勢威を恐れて

仕方なく従っている士気の低い
尼子勢力下の国人領主たちであり

士気の高い尼子軍本隊は
風越山本陣から動いておらず

未だ、2万を越える兵力が
残存していた

一方、毛利方は
なんとか尼子勢を撃退したとはいえ

少なからず死傷者を出しており
数で圧倒する尼子方に対し

まともに戦っても勝ち目は無い状況は
変わっていなかったのです

⑧ に つづく

城跡巡り 173-⑦  ( ´Д`)
安芸高田市吉田町   吉田郡山城跡