満ちていくこの一年と「つながり」合う言葉 | D.GRAY-MANの趣味ブログ

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ココチよさって私らしく暮らすこと ~読書と音楽と映画と・・・Plain Living and High Thinking~

今年も新たな一年が巡ってきました。

一年の経つことの速きこと(^^;

そして日々の過ぎ去ることの速きこと(^^;

さて、そんな1年を師走から振り返ってみると、12月の異名というと和風月名(旧暦の月の和風の呼び名)を思い浮かべる方がほとんどだと考えます。

12月は、1年の最後の月の意味から「極月(ごくげつ、ごくづき)」、「窮月(きゅうげつ)」、「限りの月(かぎりのつき)」などの異称があり、古い年を除くという意味で、「除月(じょげつ)」とも呼ばれます。

これは、大晦日の晩を「除夜(じょや)」と呼ぶのと同じ理由ですね。

この他にも、「梅初月(うめはつづき)」や「春待月(はるまちづき)」といわれ、春への期待が込められた意味でも呼ばれることもあります(^^)


(NULLさん撮影:亀戸中央公園の梅)

そんな異称の一例(意味)は、以下の通り。

・「極月」(ごくげつ、ごくつき、きょくげつ、きわまりづき、きわまるつき)

読み方は「ごくげつ」と読むのが一般的ですが、このように、さまざまな読まれ方がされてきた異称です。

「極」(ごく)という漢字にも、「極(きわ)まる」という言葉にも、終わるという意味があります。

どの読み方であっても、1年の最後の月という実感がこもっています。

・「限りの月」(かぎりのつき)

「の」を略して「限り月」という言い方もあります。

「限る」は、もともと、時間などに境目をつけるという意味です。

つまり、節目の月ということになります。

今年も、この月限りと、1年の終わりを惜しむ心情にあふれた呼び名です。

・「除月」(じょげつ)

「除」という漢字には、払い除くという意味があります。

従って、「除月」は、旧年を払い除く月という意味です。

同じ意味で、大晦日を「除日(じょじつ)」、その夜を「除夜」といいます。

古い年をリセットして、まっさらな気持ちで新年を迎えたいという思いは、今も昔も同じですね(^^)

よくないことがあった年は、特に、12月を「除月」と呼びたい気持ちになるかもしれません^^;

・「年積月」(としつみづき、としつもづき)

年が終わるのではなく、積み重なるという考えから生まれた12月の異称です。

旧暦の時代は誕生日ではなく、正月になるとみんなが1歳年をとりました。

月日だけでなく、年齢も積み重なることから、この呼び名ができたのでしょう。

同じような意味で、12月には「年世積月(としよつむつき)という異称もあります。

こちらの方が、やさしい響きになりますね(^^)

・「春待月」(はるまちづき)


(染井吉野さん撮影:神田川沿いに立ち並ぶ桜)

旧暦の時代の元日は、立春(2月4日頃)の前後でした。

そのため新年は、春の始まりでもあったのです。

その春を待つ月ということで、旧暦12月は「春待月」とも呼ばれました。

現代の12月は、これから冬本番に向かう時季です。

そのため「春待月」と呼ぶには、ちょっと早すぎる気がします。

しかし、新年を待つ心の華やぎは、春を待つ気持ちと似ていないこともありません。


(NULLさん撮影:亀戸水神近く旧中川沿いの土手に河津桜)

「年満月」(としみつづき)

12月には、「年満月」という異称もあります。

1年を大きさが決められた時の器と考えると、そこに、さまざまな経験や思い出が満ちていくのです。

いいことも、悪いことも、あふれるように詰まった1年。

1年の終わりであると共に、新しい一年に思いを馳せる月でもあることが分かります。

最後の月が、満ち足りた思いで締めくくれるといいですね(^^)


(NULLさん撮影:2月~3月ごろに咲いてしまう早咲きの河津桜)

そうそう、12月の異称、師走を除くと、なんと81もあるそうで、【参考記事】を参照してみて下さい。

【参考記事】

 

今年も、年が終わるのではなく、さまざまな思いで、みなさんの一年が満ちていく月って思えればいいですよねぇ(^^♪

ラター:神様の贈りもの(すべての美しいもののために)

(COPYRIGHT XICO.MEDIA)

ラター:なんて甘い言葉

 

言葉は、書くこと、口に出すことで、活きるのかなって感じた昨年でした。

頭の中で考えたり、腹の中で言っていたり、心の中で思っても、何も伝わらないもんね(^^)

つい、あわただしく過ごしてしまいがちですが、そんなことを考えながら、今年も丁寧に過ごしていきたいと思っています。

どうか、今年一年、みんなが満ち足りた思いで過ごせますようにミ☆ m(>_<*)

今日も、遊びに来てくれてありがとう☆





「つながり」合う言葉。

詩人の谷川俊太郎さんがこんなことを言っていました。

  現代社会の中で他者に思いを届けようと言葉を発する時、
  ふだんから自分と他者との関係を自分中心にではなく、
  相対的にとらえる努力をしておかなくては。

  言葉は自分のものであると同時に、他人のものでもある
  わけですから、言葉を発している自分の内部に、その言葉
  を受け取っている他者が存在できるような心の広がりを
  持ってもらいたいです。

この文章を読んで、人と人とのつながりを確認する言葉として、みなさんは、どんな言葉を思い浮かべますか?

「ごめんね」と「ありがとう」の言葉を思い浮かべた方もいるかもしれませんね!?

ここで、「ごめんね」と言うときの自分と、「ありがとう」と言うときの自分を、頭の中で思い浮かべてみて下さい。

「ごめんね」と言うとき、自分は相手に対して、すまなかったという思いでいっぱいです。

自分のしたことに対して、後悔し、反省している(^^;

時には無力感さえ感じています。

逆に、「ありがとう」と言うとき、自分は相手に対して、感謝の気持ちでいっぱいです。

相手がしてくれたこと、また相手の存在そのものに、感謝していますよね(^^)

この2つの言葉を発するときの気もちの違い?

それは、「自分に向けられた気もち」と「相手に向けられた気もち」の違いに気づくはずです。

「ごめんね」は、「自分に向けられた気もち」。

そして「ありがとう」は、「相手に向けられた気もち」の現れなんですよね。

そして、「ごめんね」は、「ありがとう」に言い換えることができるって思いませんか?(^^)

「いつも心配かけてごめんね」という言葉は、「いつも思っていてくれてありがとう」の言葉に変われる!

「何もしてあげられなくてごめんね」という言葉は、「何もできないけど、そばにいてくれてありがとう」の言葉に変われる!

そう言い換えて、相手に伝えることができれば、とてもステキなことじゃないかと思います(^^♪

言葉を発する自分の向こうに、その言葉を受け取る相手がいることを、意識すれば、自分中心から、相手中心に言い換えられるのだと思いました。

自分自身を振り返る時。

「ごめんね」と言いたくなることが、なんと多いことか。

でも、それを、すべて「ありがとう」に言い換えられるとしたら!?

そっか!

自分はどれほど、相手に支えられて生きているのかということに気がつくと思うんですよね(^^)

ありったけの思いを込めた「ありがとう」の言葉、たくさん言えるようになりたいですよね(^^)

そして、事柄のやりとりだけでなく自分の「気持ち」や「こころ」を言うようにしたいなって思っています(^^♪





【おまけ】
ラター:楽園にある全ての鐘が