[ 内容 ]
私たちの算数の常識が、江戸時代には通用しない?
日本独自に高度に発展した和算でも、受験算数でおなじみの植木算はなかったし、旅人算や速さの考え方はまだまだ未発達だった。
江戸の庶民は、分数の計算ができなかったし、角度も知らなかった。
ゼロの概念も江戸時代から明治時代にかけて、次第に成長していったのだ。
昔の和算や算術の教科書の問題を解きながら、数の感覚の違いに迫っていく。
[ 目次 ]
第1章 江戸時代のゼロの成長物語
第2章 誰がはじめて植木算で木を植えたのか
第3章 植木算がありえなかった理由
第4章 ギリシアの点と江戸の一里塚
第5章 分数事始
第6章 坊つちやん、角を立てる
第7章 千里馬はいったい何里走ったのか
第8章 鶴と亀の進化論
終章 和算洋算盛衰記-そして和算DNAは受験算数へ
補章 算木で計算する
[ 問題提起 ]
これ、数学の本じゃない。
数覚の本。
それも江戸時代の。
それがどれほど現代人と異なるかを感じてびっくりした次第。
本書「和算で数に強くなる!」は、和算を通して江戸時代の人々がどうやって数を感じていたかを明らかにする一冊。
それが現代人のそれとどれほど異なるかは、目次からも伺い知ることが出来る。
どうやって数を感じるか、すなわち数覚だが、この言葉をはじめに使ったのは誰だったか。
遠山啓だったような気がする。
[ 結論 ]
それはさておき、江戸時代人の数覚が現代人とこれほど違うというのは、私には甲野善紀による「江戸時代の人は走れなかった」というぐらいショッキングな指摘だった。
たとえば、我々が空気のように当たり前に使っているゼロの感覚ははじめからあったものではない。
それは決してなかったわけではないし、算盤や算木を使っていれば自然と芽生えそうな感覚でもあるが、実際はそうでもなかったことを著者は明らかにする。
植木算がなかったというのは、さらに驚きかも知れない。
こういう「感覚の差」まで浮き彫りにしたタイムスリップものを書けば大ヒットしそうだが、映画化は難しそうだ。
たとえば「戦国自衛隊」の当時代人には、技術の差は感じても感覚の差までは感じない。
こうして見ると、実は世界の感じ方そのものもまた、環境によってこれほど変わるものなのだ。
教育の力というものがこれほど過小評価できないものだとは。
[ コメント ]
実はこれ、異時代だけではなく同時代の異世界どおしでも通じることのようで、この点に関する良著が近々登場するが、それは後のお楽しみということで。
[ 読了した日 ]
2009年12月15日