【乱読NO.1729】「和算を楽しむ」佐藤健一(著)(ちくまプリマー新書) | D.GRAY-MANの趣味ブログ

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[ 内容 ]
明治のはじめまで、西洋よりも高度な日本独自の数学があった。
殿様から庶民まで、誰もが日常で使い、遊戯として楽しんだ和算。
その魅力と歴史を紹介。

[ 目次 ]
第1章 聖徳太子の時代に数学は伝わった
第2章 戦国時代の数学
第3章 数学塾の登場と活躍の場を広げた数学者たち
第4章 ベストセラー『塵却記』と吉田光由
第5章 高度になっていく数学
第6章 関孝和と関流の数学者たち
第7章 遊びとしての数学
第8章 旅を楽しみ、地方に数学を広めた「遊歴算家」
第9章 明治時代の和算家

[ 問題提起 ]
「ゆとり教育世代」の文科系学生は数式が苦手だから、漢語もしくは和語で式を説明する方がよいのでは、ということである。

Σは和、ΣY2は平方和(二乗和)で意味がわかる。

標準偏差もこの方法で表現すると、「各観測値と平均との偏差を正の値にするために二乗し、それを平均するために偏差の平方和を自由度で割り、さらに元の単位に戻すために平方根で開いたもの」と言えば、計算手順と同時に標準偏差のもつ意味が分かる(ちなみに、この計算は電卓のメモリー機能を使えば、一度に計算できることは、この春、放送大学教育振興会から出した拙著『社会統計学』のQ&Aに、後輩で山口大学の高橋征仁さんに書いていただいたが、このQ&Aも結構、評判である)。

この漢語(正しくは和製漢語)の便利さの背景には、主として江戸期における和算の隆盛があったのではないかと思い当たり、本書を読む。

佐藤は1962年に東京理科大学理学部数学科を卒業後、長らく東京の中学・高校で数学教師を務めた。

そして、退職後はとくに吉田光由の『塵劫記』を中心とした江戸期の和算本を研究し、現在は和算研究所理事長や数学史学会会長などを務めている。

[ 結論 ]
佐藤によれば、数学は聖徳太子の時代に遣隋使によって日本にもたらされ、大化の改新以降は主として徴税の基礎となる土地の面積の確定に「方田」という数学が用いられていた。

だから、役人(官僚)になるためには、数学の知識が不可欠であった、という。

また、この時点で円周率はほぼ3であるということが分かっていたから、この度の「ゆとり教育」で「円周率を3と教えてもよい」という方針を当時の文部省官僚が打ち出したことは、日本の数学教育のレベルを大化年間に戻すという超復古主義的施策だったわけである。

また、当時の計算には算木が用いられ、四則演算つまり足し算・引き算だけでなく掛け算・割り算まで視覚的にできた。

そろばんという「計算機」は室町期に勘合貿易を通じて伝来し、これによって日本の数学は飛躍的な発展を遂げる。

そして、何よりもこの数学の重要性を知悉していたのは、当然のことながら目的合理性を最大限重視する戦国武将であった。

土木・建築技術(治水・築城)や用兵・兵站・戦略の基礎となる数学は、戦国武将や軍師の必修科目であった。

やがて関が原の戦いや大阪の陣の後、豊臣恩顧の大名に仕えた武士は失業する。

そして、彼らのなかから数学的素養を生かした塾講師が誕生する。

毛利重能、百川治兵衛、今村知商などが「勾股弦の理」(今で言う「三平方の定理」)、「円弦の術」(弓形の弧の長さの計算法)を発見・考案する。

おまけに毛利門下の今村知商などは、子どもに数学を教えるために「因帰算歌」なる歌をつくる。

たとえば、三角形の面積は「山形(三角形)は釣(つり=高さ)と股(はたばり=底辺)掛けてまた二つに割りて歩数(面積)とぞ知る」で求められる(ちゃんと五七五七七の31文字になっている)。

この業績を認められて今村は磐城平藩に再就職している。

また同じく毛利重能の高弟で角倉一族(了以の従兄弟の孫)の吉田光由は、江戸初期のベストセラー『塵劫記』『新編塵劫記』を書き、江戸期和算本の様式を確立する。

とくに巻末に「遺題」すなわち自分が解けなかった問題を載せる形式は、その後の和算の隆盛をもたらす。

なぜなら、学問の発展は、今後の課題を世代を超えて継承し続ける「想像の問いの共同体」を必要とするからである。

そして件の円周率も、寛文年間に赤穂藩士(まだ浅野家は取り潰されていない)の村松茂清によって3.14と定められた。

そして、延宝年間、ついに幕臣の子・関孝和が『発微算法』で衝撃のデビューを果たす。

彼は、先人の遺題を次々と解き、関流算学の祖となる。

彼は西欧に先駆けて代数(算木と変数を一緒に書く「傍書法」すなわち縦書き代数)を「発明」しており、その門下からは優れた数学者が輩出された。

しかし、何よりもこの和算を地方の庶民にまで広げた功績という点では、遊歴算家と算額の存在が大きい。

遊歴算家とは、全国を遍歴して和算を教えた数学者で、算額とは遊歴算家の教えを受けた地方の民衆が自分が解けた問題と解法を額にして神社に奉納したもので、これが数学のPRとなった。

「読み書き算盤は処世の三術」と言われるように、算術は実用性(会計管理や土木建築など)ももったが、同時に「ゲーム」でもあった。

[ コメント ]
たとえば、6月22日のNHK「サイエンスZERO」では江戸期の科学技術が取り上げられていたが、一関市(ここには関流算学の文書が多く残る)の大門神社に奉納された13歳の佐藤亀蔵少年の算額の問題は、三平方の定理と比例を使って相似の問題を解くことで、三角形のなかにある2つの円の直径の比を求めるものであったが、上智大学数学科の学生も半分が解けなかった。

よく18世紀の日本の識字率の高さは世界有数とされていたが、おそらく庶民の数学の水準も世界一であった可能性もある。

[ 読了した日 ]
2009年2月21日