【乱読NO.486】「正しい大人化計画 若者が「難民」化する時代に」小浜逸郎(著)(ちくま新書) | D.GRAY-MANの趣味ブログ

D.GRAY-MANの趣味ブログ

ココチよさって私らしく暮らすこと ~読書と音楽と映画と・・・Plain Living and High Thinking~

 

イメージ 1

 

[ 内容 ]
ひきこもりやフリーター、ニートなど、自分の生き方が定まらず、あてどなく漂う若者が増えている。
こうした若者の「難民」化は、本人にとっても社会にとっても決して望ましいことではない。
だからといって彼ら/彼女らを非難しても意味はない。
いま本当に必要なのは、若者を絶望させないための仕組みを構築することである。
教育、法、労働という三つの側面からそのためのプログラムを構想する本書は、若者自身のよき生とよき社会を実現するための必読の書である。

[ 目次 ]
第1章 日本の若者問題とは何か(大人とは何か 大人は死を内在化している ほか)
第2章 「教育システム」はこう変えよ(「教育システム」構想のための五大原則 義務教育機能を限定せよ ほか)
第3章 「法的な通過儀礼」を設定せよ(法的な「大人化」の時期とは? 「法的な通過儀礼」の第一段階 ほか)
第4章 就労体験で間延びした日常を立て直せ(つねに労働は社会性を帯びる 労働経験を「学校教育」とは別に味わわせる ほか)
第5章 「上昇システム」への依存を断ち切れ(「学問の要は活用にあり」を復活させよ 構想実現にとっての克服課題)

[ 発見(気づき) ]
横浜国立大学工学部卒業の知識人。

結構な名著。

自身の塾講師としての経験から、教育制度の改革と大人への「通過儀礼」としての「去勢(比喩的な意味)」を唱える作品です。

自身が語るとおり、へたすれば右翼扱いされるんじゃないかというほど現状には、批判的。

しかし「ジェンダーフリー」「性教育」を語るその言葉は、左翼を論理で打ち負かし、右翼の根本的な間違いをたたっきる。

[ 教訓 ]
教育システムの改革の柱として彼が挙げるのは、「四・四・三」制。

根拠は、自身の経験に基づく「小学五年生ごろから社会的な意味で大人びてくる(p.57)」ので一人の教師が親代わりのようなアタッチメントを媒介にして多くの生徒の心を掌握しようとすることは、クラス運営にとって有効な効果を生まないこと、それから「学習内容が小四から小五にかけてかなり高度化する」(p.58)ために「その内容について数等高度な理解力を持っている」(p.58)専門的な人材が求められること。

そしてなによりも、現行の六・三制は、中学校の期間が短すぎて、入ったと思ったらじきに高校への進路を考えなくてはならず、たいへんあわただしいこと。

その上で、国語・算数・数学・社会・理科に限定して午前中のみ教える、というのが小浜氏の持論である。

残りの音楽や体育などを外部の民間企業に任せる(スクール、塾、教室などの形で)ことが大きなポイントである。

さらに、高校はほとんどを私立にして、国公立はエリートのみが通う、純粋な勉強のためだけの学校にするという。

残りの私立が、語学専門・商業専門…といった専門学校的な役割を担うというわけである。

私が唯一小浜氏に石を投げ込みたいのが後半の民間任せの部分。

小浜氏は横浜出身だからなのか、民間を信用しすぎているところがあると感じるのである。

まだまだ日本にも、公立の高校に通うためだけに片道三時間をかけて学校に通う人がいる。

JRが廃線になってバス会社の採算も取れないために、自治体がバス代を負担してまで学校に通っている。

こういう状況では、公立のエリート高校に通うことがそのまま一人暮らし(=親という支援なしでの、ハンディキャップを背負った生活)に直結するだけでなく、私立高校でさえ採算性の関連で都市部に移動することになる。

間違いなく現在よりもひどい一極集中が起こるであろう。

何より生活主体である人間が、まるごと移動することが前提なのだから。

あと、午前中授業の後の放課活動を重要視する(その結果塾がやたら遅い時間まで続くという問題も解消できている)のはいいが、部活動とかを考えるとまた問題になってくるだろう。

その上、公立高校に進学することを考えている人間は放課を塾にそのまま費やすだろうから、結果として公立高校に進学した人間には勉強しか残されないと感じる。

この視点から考えれば逆に公立学校で強制的に与えられる家庭科や音楽、体育なんかはバランスを取る要素のひとつにはなりうると思う。

[ 一言 ]
ただ、具体的な提案のこのような粗さを除けば、大部分は納得できる。

大胆な提言の骨格だけを見れば誤ってはいないし、そういった実務的な部分には専門家がいる。

「国際競争力の強化」のために詰め込み教育の復活を望む人たちもいれば、「かかわりあい」をベースにした教育を求める人たちもいる。

明快な答えは誰にも出せないし、これは一つの視点から見たちょっとラディカルなアプローチ。

個人的には、午前中だけの授業というのが古代ローマっぽくて嬉しかった。

[ 読了した日 ]
2007年12月16日