【乱読NO.45-1】「数学的思考法 説明力を鍛えるヒント」芳沢 光雄 (著)(講談社現代新書) | D.GRAY-MANの趣味ブログ

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[ 内容 ]
もっと試行錯誤を。
本当に考えるためのレッスン。

[ 目次 ]
第1章 間違いだらけの数学観(なぜ分数計算ができないのか? 若者はなぜ「地図の説明」が苦手になったのか ほか)
第2章 試行錯誤という思考法(できなくても考えておくことが大切 「運」から「戦略」へ ほか)
第3章 「数学的思考」のヒント(解決のためには「要因の個数」に留意せよ 目標から「お出迎え」してみよう ほか)
第4章 「論理的な説明」の鍵(「論理」からの説明、「データ」からの説明 「仮定から結論を導く」ことと「全体のバランス」 ほか)

[ 発見(気づき) ]
帯には「もっと試行錯誤を!!」と書かれているが、正にこれが本書の主張のエッセンスのようだ。
前書きには、単純計算を素早く数多くこなして脳を鍛えよう、という最近のブームに対して何よりおかしいと思われるのは、算数・数学は与えられた条件のもとでいろいろと「考えること」を学ぶものであるはずなのに、単純な計算練習の数をこなしスピードを上げることや解法を丸暗記することが数学力を上げる「救世主」であるかのように受け取られている風潮である。
もちろん計算力は必要だ。
しかしそのような「条件反射丸暗記」学習法は、「処理能力」は上がるかもしれないが、思考力を養うことにはつながらない。
と書かれており、主として教育面に焦点を当てて、現状の問題点とそれに対する考え方を述べたものである。
ある意味では、最近また流行っているらしい、「クリティカルシンキング」の具体的な解説本と言う側面もありそうだ。
マークシート方式の試験が主流となったために、数学の証明問題さえも穴埋め方式になったり、短時間に多数の問題を処理する能力を見る試験対策として丸暗記やテクニックに走ったり、といった弊害が出ており、むしろコツコツと地道に積み上げていく試行錯誤を伴う思考訓練が重要だという指摘はその通りだろうと思う。
ただし、実社会では時間は掛かるけど正しい答えを出す人と、そこそこの精度で即断即決ができる人のどちらが評価されるか、というと、スピードもかなり重要だと思うのだが。最近、基礎学力が低下しているという話をよく聞くが、本書を読んでみると、数十年前の自分の体験と比較してみて、確かに方法論としての問題を感じざるを得ない。
とは言え、やっぱり時代は変わっているわけで、昔に戻せば済むというものでもないだろう。
本書に書かれているエッセンスはとても重要なことばかりだと思うのだが、下手すると、本書に出てくるポイントだけをそのまま丸暗記するようなことになったりするので、中が必要だ。
本書にも、数学と他の教科との時間の奪い合いのような話が出てくるが、世の中の情報量は時と共にどんどん増えているわけだし、勉強以外の場面でも脳みそを使う機会が圧倒的に増えているような気もする。
その意味では、教えるほうも教えられる方も年々大変になっていっているのかもしれない。
本書で指摘されている、試行錯誤や論理的な思考法の重要さには全面的に賛成したいのだが、数学教育だけを取り上げてどうすべきかを論ずるだけではバランスを欠いたものとなる恐れもあると思う。
また、日本に数学を毛嫌いする人が多い要因の一つには、理系・文系の分け方にも問題があると思う。
特に、経済学等は、文系の人が多いにも関わらず、ミクロ経済学では高度な数学が要求される。
そんな事は、露知らず、私の周りにも、「数学なんて将来全く役に立たない」と思っている人ばかりであった。
確かに、日本の国際的競争力を上げるには数学力の向上、論理的思考の向上は不可欠だと思う。
国際化といえば、英語教育に力を入れる方向ばかり考えられているが、そんな事は、通訳や機械(将来的には)に任せておけばいい。
アメリカや、イギリスでは、子供でも英語が喋れるのであるから。
英語が喋れるだけじゃ、意味がない。

[ 教訓 ]
本書は、学力低下が指摘される日本の教育の現状において、数学の大切さとその意義を、数学者の著者が訴えている本である。
著者が言う数学的思考法とは、すなわち「あれこれ試行錯誤しながら考え抜く」こと。
数学の問題に取り組み、あれこれ悩みながら考え抜くという行為がいかに私達の思考力を養う上で重要であるかを認識した。
著者は、その「考え抜く力」の重要性を述べると同時に、子供に計算能力を反射的に丸暗記させようとする風潮や、ただひたすら処理能力ばかりが求められる社会を危惧している。
ゆとり教育によって子供に解答を文章で書かせることが減ったことや、マークシート方式などによって採点方法の合理化が進み、子供達が答えを導く上で「考える」ことが減ったしまった現状を学力低下の問題と結びつけて説明している。
しかも、「考える」ことの欠如がもたらすのは、表面的な学力低下を引き起こすだけではなくて、数学を学ぶ面白さを知るきっかけさえ奪っていくということ。
以前、ビートたけしが「頭のいい人とは数学的な思考が出来るやつ」と言っていたということを聞いたことがある。
映画監督である彼が、数学的な考え方の例として因数分解の重要性を以下のように説明している。
AX+BX+CXという式があったとする。
これを因数分解するとX(A+B+C)と変形できる。
この数式を映画の話に置き換えて考えてみる。
Xを殺人者役とする。
A、B、Cは殺人者に殺される被害者役。
普通のやつが映画をつくると
・XがAを銃で殺すシーン
・XがBをナイフで刺すシーン
・XがCをナイフで斬るシーン
以上の3つのシーンを撮ることになる。
もし、「頭のイイ」やつがやると
・Xが凶器をもって歩いているシーン
・そして、A,B,C,が倒れているシーン
以上の2つのシーンで済む。
わざわざ実際に殺しているシーンを撮らなくても済むわけだ。
ビートたけしは、要するに「数学の知識を、そのまま実生活で使うことはそうそうない。でも、生きていく上で、数学から学んだ数学的思考法は様々な局面で活かさせるんだよ。」ってことが言いたかったんだと思う。
こんな風に数学の面白さを伝えてくれる先生がもっといてもいいんじゃないかと本書を読みながら考えた。
社会に出て働くこともしてない、勉強ばっかりしていた元優等生タイプの先生に、学ぶことの本当の意義や面白さなんか分かってるはずないと思う。
本書を読みながら、「あれこれ試行錯誤しながら考え抜く」ことの大切さを知った。
その話の延長線上で著者は、偶然が生むと言われている「ひらめき」について以下のように述べている。
結局のところ、他人には偶然性を強調して格好良く話している「ひらめき」でも、実際のところはさんざん考え抜いた蓄積のほんの少し上に、ふっと気がつく一瞬のことを言うようである。
この話は以前読んだ「アイデアのつくり方」でも同じようなことを言っていたのが大変興味深かった。
また、ハイデガーの次の言葉を思い出した。
この言葉は「とても美しい」。
それは、「数学は歴史学や哲学にくらべて格別に厳密ということはない。ただ、ずっと狭いだけなのである」というものだ。
数学は数学が向かうべき狭い対象をめざすことによって、つねに数学的思考を維持できたのではないか。しかし、そのことによって数学的思考は保たれたとしても、だからといってそれで自然像がどのような数学で語られるべきかという提案にはなりえない。
むしろ数学はどんどんと異質な自然像づくりに貢献してきたのではあるまいか?
また、この本では、世界のソフトウェア企業ランキング上位100位の半数近くがインド系企業だという数字とその理由が考察されている。
日本では9×9までの掛け算の暗記を、数学大国インドでは20×20まで覚えさせるという有名な話がある。
だが、単に暗記量が多ければよいということならば、数学者は皆、桁数の多い掛け算を暗記しているはずだし、暗算が得意なソロバンの使い手もインドのように優れたソフトウェア開発者になっていておかしくない。
インドの教育では、たくさんの計算結果を暗記させると同時に、その理由や説明もたくさん考えさせているのが、数学教育で成功した理由なのだとする。
日本の教育では、できるだけ少ない計算例から「やり方」だけを抽出しようとしている。インドでは多数の計算例から「論理」や「背景」を学習させている。
だから日本人は「やり方」を忘れてしまうと問題が解けなくなってしまうが、インド人はやり方を忘れても一から考えて答えを出すことができるようになる。
「ゆとり」の確保のために暗記量を減らして少数の結論だけ暗記させても、自分で考えることはできるようにならない。
暗記や計算練習を通して目指すものは計算力ではなくて、それがどうしてそうなるのかを説明できるようになることだというのが著者の見解である。
日本では1と2とnの場合で考える。
しかし、1と2と3とnくらいまでの場合を常に考えてみるのが、説明力強化につながるのではないかという。
ひらめきについてなるほどというまとめがあった。
「結局のところ、他人には偶然性を強調して格好良く話している「ひらめき」でも、実際のところはさんざん考え抜いた蓄積のほんの少し上に、ふっと気がつく一瞬のことを言うようである。」
思わぬ出会いや失敗から何かを偶然に発見したというセレンディピティも、本当は偶然ではないはずだという指摘。
日常試行錯誤を繰り返している人が、単純なミスや人との出会いという決定的な刺激を得て、大きな発明や発見を達成している。
ただ偶然を待っていてもひらめきは訪れない。「しばらく考えた経験」があると点や線が面として見えるようになるから、大切なのはできなくても考えておくことなのだという説。
また、じゃんけんをするとき、人間が出すのはグーが多くチョキが少ないという。
著者が実験室で725人の学生に延べ1万1567回のじゃんけんをさせて作成した統計では、
グー  4054回
パー  3849回
チョキ 3664回
という状況であったらしい。
じゃんけんでは有意水準1%でグーが多くてチョキが少ないのだ。
理論上はじゃんけんの統計はグー、チョキ、パーが3分の1ずつ出されるはずである。
だが実際にやってみると違う。
人は他人を目の前にすると警戒して拳を作る傾向があることや、チョキの形の手はグーやパーよりも作りにくいことなどが影響しているのではないかと理由が挙げられている。
こうした現象を説明する際、数字のデータ(証拠)と、その理由(論)はどちらも大切で、必ずしも「論より証拠」ではなく「証拠より論」が有効なときもある。
データだけ分かっていても本質的な対策が講じられない。
論と証拠の両方から面として説明することが重要である。
他にもたくさんの数学的な思考の応用が紹介される。
要旨は試行錯誤と説明力が大切だということ。

以下に↓つづく。
http://blogs.yahoo.co.jp/bax36410/46468321.html?p=1&pm=l

[ 読了した日 ]
2007年2月3日