https://youtu.be/CZA4wfFY4iw


『人は愛を求めて生き 愛のためなら自分や他人と命をも奪います』


 失恋というものは脳の神経回路にも深刻なダメージを与える、と紹介されています。精神的にも、肉体的にも相当なダメージを与える出来事なのでしょう。失恋からくる絶望感から、死の衝動に駆られてしまう人もいるくらいです。


 ましてや、失恋の仕方が「自分が愛した人が自分ではない人を選んだ」場合、自分自身そのものを否定されたようにも感じるものです。その絶望感は「告白したけど振られちゃった」なんてものとは比べ物になりません。(なんてもの、とか言ってごめんなさい)


 愛した女性を「狩人」に取られ絶望し、その身を川に投げたさすらいの粉挽き職人の彼もまたその1人だったのかもしれません。


 「しぼめる花」は「美しき水車小屋の娘」の18曲目。美しいのは水車小屋ではなくの方です。念の為。ニホンゴむずかしい。正確な歌詞は自分で調べてください。以下、私的解釈マシマシです。とは言っても和訳ちょっといじったくらいの文章です。


 ホ短調の暗い雰囲気から曲が始まります。は愛した女性から受け取った花とともに墓へ入るところ。もらった花達はすでに枯れ、色褪せていて、そして私の身に何があったのかを知っているかのように悲しい顔をして私のことを見てくる、という訳です。

 春が来て、花々が咲いても、私の愛が返り咲くこともなければ、あの人からもらった花も萎れたままなのです。


 と、絶望と死が歌われてきましたが、ここからの最後2節はホ長調で、少しだけ明るく、軽い足取りになります。


 あの人が私の眠る丘(と、とりあえず僕は解釈しましたが……)を通りがかり、「あの人こそ誠実な人だった!」と思ってくれたら!花よ咲き誇れ!春が来て不毛な冬も去ったのだ!


 と、最後に救済的なものを歌って終わります。実際に救済されたのか、はたまた救済を望んでいるだけなのか。枯れた花は死の象徴であり、再び咲き誇ることは再生を意味するという解説も見ました。なるほど。


 歌が終わり、後奏に入るとピアノは再びホ短調に戻り、暗い雰囲気で終わります。救いがないというか何というか……終始「死」と「絶望」に支配された曲なんでしょう。フルートでの「しぼめる花」の方のテーマでは、このホ短調の後奏がなく、また第7変奏(終曲)は明るくホ長調で締められますから、原曲よりは救いがあるとも取れるかもしれません。取れないかもしれません。わかりません。


 フルートの方の「しぼめる花」のベーレンライター版には、歌詞が英訳とともについていて、“Der meint' es treu!”の部分が“His love is true!”になっています。「彼の愛こそが本物の愛だった」。日本語にしてしまうと直球に感じますが、個人的には好きです。


 「絶望」の持つエネルギーというのは馬鹿にできません。深い絶望に襲われた人間がこれまで多く存在してきたからこそ数々の文学作品、音楽作品が生み出され、哲学のような学問が発展してきたのでしょう。下の記事では『絶望は時に天賦の才に匹敵する』なんて見出しもつけられています。

https://diamond.jp/articles/-/308468

 シューベルトも度々、様々な絶望に見合わされてきたからこそこのような作品を生み出せたのでしょうか。1818年から23年にかけて、シューベルトは室内楽曲をほとんど仕上げていない、いわば「スランプ」状態にありました。その壁を乗り越えた24年以降、フルートの「しぼめる花」を含めて多くの名室内楽作品が生み出されていくことになります。


 「美しき水車小屋の娘」は1823年に、フルートの「しぼめる花の主題による序奏と変奏」の方は1824年に書かれています。シューベルトが亡くなったのは1828年。晩年の作品と言っていいでしょう。また、1822年末から23年にかけて、死の遠因ともされる梅毒を発病し、その入院中に「美しき水車小屋の娘」の構想が練られたとも言われています。歌の内容にも、シューベルト自身にも「死」の陰を見出すことができる、そんな気がしてきます。


 「絶望」と「死」。この曲の一つのテーマだと私は思いますがどうでしょう。


【追記】

 詩や文学というものの多くはメタファーでできています。

 例えば、「水車」は、時として女性器をさし、「水車が回る」ことはセックスを意味する、そんな場合もあるそうです。他にも「狩人」が踏み荒らそうとした「キャベツ畑」(14曲目)とか、まあ色々個人的には引っかかるところが多いです。キャベツ畑から、ヨーロッパでは赤ちゃんが、ソビエトでは兵士が生まれてきますから。(は?)

 「緑色」が好きだったり嫌いだったり何なんだい、と思ってしまいますが、これもまた意味があるのでしょう。

 こうした部分をきちんと隅々まで考えていければ、この歌のまた違った面も見えてくることでしょう。がそれはまた気が向いたら考えます。タブンネ。