スマホの容量に不安があったので、スマホの写真やメモを整理していました。スマホのメモには、諸民族音楽概論や西洋音楽史の課題の文章など、いろいろなものが残っていて面白いものです。
そんなメモの中に、大学2年の時に履修した「美学」の授業のテスト、もしくは課題への自分の解答が残されていました。今となっては自分でも「何書いてるんだコイツ……」と思いますが、これを書いたのは実に1年以上前。読んでみると、たった1年と少しで変わった部分、1年と少し程度では変わらない部分が可視化されるような気分になりました。
このまま削除してもいいのですが、もったいないのでここに残しておくことにしました。ただ、問題文が残されていないので、どのような問いに対して自分がこう答えたのかが分かりません。それでも、何となくわかる部分はあることでしょう。(1)(2)は問題番号です。そのまま載せます。
【以下本文、2021年12月に書いたらしい】
(1)
プラトンのイデア論の視点から見た場合、「美を感じる」というのは、その美的対象を通してイデア界の世界を垣間見る、あるいは「美」のイデアを見ることができるからであると言える。
一方で、アリストテレスのようにリアリズム的な面から考えると、「美を感じる」時、それには何らかの原理・原因があると考える。その原理には秩序や限定性があり、数学的(客観的)に規定できるであろうとされ、今まで多くの哲学者らが取り組んできた。その結果、様々な「黄金比」が生まれたり、「実践学」というものに繋がった。
前述の2つに対し、新しく生まれた美に対する考え方がハルトマンらに代表される現象学的な考え方である。
プラトン的な「美」は主観に、アリストテレス的な「美」は客観によるものなのに対し、現象学的には「美」はその中間にあるとする。
美的対象と観測者の間にはいくつかの「層」(ものの側面ということもできるだろう)が立ち現れるとされる。層の数には色々な考え方があるが、いずれも物質的存在、実在するものを通して、非実在の理念的なものを見るという考え方である。
以上3つの観点から「美」というものを取り扱ったが、私が1番共感できると思ったのはプラトン的な考え方である。イデア界の存在を証明することなどできるとは思ず、ほか2つの観点よりも妄想の域に近いとは思うが、おそらく私の普段の思考に近いのだろう。妄想癖でもあるのかもしれない。
1番整然で、誰でも納得できるだろうと思ったのは現象学的観点である。アリストテレスらの数学的な規定の方が客観的に見えるが、「美の原因」というのが、東洋と西洋の美術の間に大きな違いがあるように、文化等の違いによって多種多様になり過ぎてしまうのならば、誰でも納得できる普遍性に欠けると思う。
(2)
字数が限られるので簡潔に課題2番を記す。
この演奏の場合「物質的側面」とは、「鼓膜を揺らし脳に入ってきた全ての視覚情報」と言えるだろう。演奏はもちろんその他ノイズ、あるいは自分の体内の鼓動などもそうかもしれない。
しかしそれら全てに感性を向けてる訳ではなく、あくまでも私の感性は演奏に向いているため、この演奏全体が「現象的側面」と言えるだろう。少なくともここまでが物質的存在と言えるだろう。
さらにここでも情報の取捨選択を行い、私が感じたメロディーや和音などがこの「事物的側面」であろう。ここまでを(物質的に)存在するものとすることもできるかもしれない。
ここから私が意味出したものが「超越的存在」と言えるだろう。真夜中のヨーロッパの広い平原を月明かりが照らしていて、風が木を優しく揺らしたり、家の中で女性が月明かりを頼りに編み物をしているような光景を想像(妄想?)する。
『月の光』という題名はあれど、ドビュッシーがそれを描写しようとした曲という訳ではない可能性もある。『月の光』という題の前には別の題がついていたという話もある。とすれば、ドビュッシーの観点からはまた別の側面があるとも言えるだろう。