アダムとイブは禁断の果実を蛇に唆され、(好奇心から?)口にした結果、人類は原罪を背負って生きることになりました。
パンドラは、パンドラの箱(甕説もあるらしい)を開けてしまったが故に、人類はあらゆる災厄と苦難と生きていかなければならなくなりました。
好奇心や自由、その代償はとてつもなく大きいようです。
さて、アダムとイブの話に救いはないですが、パンドラの物語には続きがありますね。あらゆる災厄が飛び出したが、最後には希望が残っていた、というやつです。
どんなに苦しくても、人々は希望がある限り前を向いて生きられるというイイお話ですね。取ってつけたような救済デスネ。
もし、初めからパンドラの箱に希望が入っていなかったら?
人でも犬でも、初めから無い分には何も思いませんが、一度手にしたものを取り上げられると苦痛に感じるようです。犬に一度エサを見せた後、それを引っ込めると吠えたり機嫌が悪くなったりしますよね。
もしパンドラの箱に希望が初めからなければ、人間は現実を受け止めて生きていたでしょうが、実際には希望が箱の底に残っていたがために、存在もしない救世主や、来るかも分からない良い未来を待ち望み、現実から目を逸らして生きさせられ、それがまやかしであったと知った時に激しい絶望感を味わうのでしょう。
他の苦難をより際立たせるために希望を一味加える。パンドラの箱の製作者は料理上手なのかもしれません。
また、災厄は箱から飛び出し、世界中の人々のもとまで行き届きましたが、希望は飛び出さず手元に残りました。希望は世界中の人々に行き届くほどの量、力はなかったのでしょうか。「希望だけが人間の手元に残った」と主張する人もいますが、誰の手元に残ったのかを考えてみればパンドラ、即ち人類に災いをもたらすために作られた存在のはずです。
存在が災厄のパンドラの手元に希望が残ったところで、誰も救われないと思うのですがどうなんでしょう。
スイカに塩をかけたらより甘くなるように、世のあらゆる絶望をより際立たせるために存在しているのが希望である。パンドラの箱には1から10まで人を苦しめるものしか入っていなかった。救いのない話ですね。
ちなみに、僕はスイカに塩をかけて食べることはしない派です。