中国の古典『列子』より
杞という国に心配性の男がいた。彼はいつか天が落ち、大地が崩れるのではなかときが気でならず、夜も眠れず、食べ物も喉を通らないほどだった。その心配ぶりを心配する男がいて、こう論じた。
「天は空気の集まったものでしかない。そんなものが落ちてくるはずがないではないか。また大地は土のかたまりで、世界の果てまでつづいている。毎日お前さんが歩いていたり踏みつけたりしてもびくともしない。それなのにどうして大地が崩れるのではないかなどと心配するのかね。」
こういわれて杞の男はすっかり安心して心配するのをやめた。しかし、この話を耳にした学者はこう言った。
「天地が崩壊しはせぬかと心配するのはあまりに大げさである。しかし、けっして崩壊しないとは言えない。天地が崩壊するものであればいつかかならず崩壊する。その不幸なときにめぐりあわせた不幸な人はきっと心配するだろう。」
私はこの不幸な人かも!
震災後半年が過ぎようとしているのに私は未だに宮城県から一歩も出ることができずにおります。いつまた地震が起き津波がきて停電になり、道路が寸断され自宅に帰れなくなるのではと・・・恐怖から宮城県から一歩も出ていないのです。船に乗っても宮城県沖です。
しかし、この文章の続きがあり、
列子先生はこう言ったそうです。
「天地が落ちたり崩れたりするかしないかといったことは、われわれ人間はわかるはずがない。人間には未来のことなどなにもわからない。だから、そんなことに心を煩わすのは、実に無駄なことだ」
この列子の言葉から私の心配も取り越し苦労、無駄な心配ということのようですね。