奥さんのエピソードはいろいろあるが、その一つに父親ビンタ事件がある。

 

奥さんが中学2年生の時の話である。当時奥さんの家族は父親が勤務していた、織物会社の工場と同じ場所の社宅に住んでいた。織物職人の父親は昼休み職場から我が家に帰って、昼食をとるのを常としていた。夏休みは子供たち(奥さんは3人姉妹の長女)が父親の昼食当番をしていた。

 

ある日、奥さんは当番だったのに、父親が帰った時に昼食の用意ができていなかった。父親が怒って、奥さんにビンタを見舞ったらしい。奥さんはその時「いいね。親は子供を殴れて」と反発した。すると父親は「そうか。それならお前、俺をなぐってみろ」という。それで奥さんは父親にビンタを見舞って、さらに見舞おうとして、できずにわあわあ泣いたという。

 

僕はこの話が好きだ。父親が自分を殴れと言えるのがすごい。そしてこの関係をうらやましく思った。僕は父親と生の感情をぶつけ合ったことがない。父親は僕との距離感を計りかねているところがあった。僕も父親には近づきがたいものを感じていた。こんなふうにぶつかり合えるのは父と娘だからであろうか。

 

父親は実家が没落して小学生の時に奉公に出されたという。子供の時に家庭の味を知らないので、家族に対する愛着は人一倍あった。僕が彼女から聞く限り奥さんをすごくかわいく思っていて、愛情深い人に思えた。いつも奥さんの才を惜しんで「男の子であったらなあ」というのが口癖であったとも聞く。そのセリフは今の時代には合わないかもしれないが、奥さんと父親の関係はなにか切なくて優しい。向田邦子さんの小説の題材になりそうに思った。