あれは中学一年生のときだったように思う。今よりも原水爆禁止運動は熱を帯びていたように思う。活動団体による平和行進などがよく行われていた。宮崎からスタートし大分を通って広島まで歩く行進が6月に行われることとなった。我々の担任の教師はホームルームの時間に各々がプラカードを作って、沿道で行進を歓迎しようと熱弁をふるった。生徒たちは慣れないままに、工夫しながら木片や厚紙を使って、プラカードを作った。そして「戦争反対」や「地球に平和を」などスローガンらしきものをマジックで書き付けた。

皆は長方形の厚紙をそのまま表と裏から木片で挟み込む形の普通のプラカードだったた。私は先ず厚紙を長方形でなく上側の両角を半円の丸い形にした。表に「原水爆禁止」裏に「原子力の平和利用」と書いた。そして表に「鉄腕アトム」裏に「おそ松君」の稚拙な我流の漫画を加えた。行進当日の午後私たちは担任の引率のもと、沿道に出て行進を迎えた。原水爆禁止のタスキをかけてたくさんの人たちが何百メートルも続いた。

その中の中年の男性が私のプラカードに目をとめて、「面白いね、僕にちょうだい」と言うので「はい」と言って渡した。私は内心、皆とちがったプラカードを作ったことを大人が認めてくれたような気がしてうれしかった。それから学校へ帰って残りのわずかな時間の授業を終えて、帰路についた。両側の田んぼは水が入って田植えの準備が進んでいた。柔らかい風に吹かれながら白鷲が何羽かあちこちにとまっていた。

しばらく行くと道沿いに公園があり、花壇のあじさいを見に行くことにした。その一角に金網のゴミかごがあった。

厚紙の黒いマジックの字体が私の眼に入った。もう花を見るどころではない。悲しくなってしまった。彼らの「核廃絶」の主張に対して「原子力の平和利用」と書いたことが気に入らなかったのだろうか。どうせ捨てるのならもっと遠くの校区外にしてくれればよかったのに。気もそぞろに家に帰った。母が「今夜はお前の好きなカレーだよ」と私に声をかけた。私は心の動揺を悟られないように、普通に返事をしたが、悔しさは鎮まらなかった。大人の気まぐれといえばそれまでで、深く受け止めるほどのことではなかったのかもしれない。ただそのことは思春期に入った私の大人への不信のスタートだったように思う。それ以来プラカードは作ったことがない。人生で一度きりのプラカードだった。