30代の前半、僕は経済団体に出向となり、東京勤務となった。奥さんは僕の転勤と合わせて、勤めていた銀行を退職し、東京に同行した。ほどなく奥さんは妊娠した。当時はインターネットもなく、頼れる知人もない中で、調べることもなく、一番近くの産婦人科医を受診した。医者は近いことを理由に選ぶべきでないというのはこの時に学んだことである。

 

夫妻とも産婦人科医であったが、どちらも30代前半で経験不足だった。つわりがひどく苦しむ奥さんに、訴えるたびに「大丈夫ですよ」と2~3回受け流されてしまった。何回目かに「この苦しみは尋常でない。ほんとに大丈夫なのか」と僕が問い詰めると、男の医師が青くなって、「自分の手に負えないので、ほかの医者を紹介する」と言い出した。怒りがわいたが、一国の猶予もできないと思って、紹介された病院をすぐにたずねた、建物は古かったが、応対してくれた医師は50代で落ち着いた感じで、信頼できそうだった。

 

診断は胞状奇胎で直ちに手術が必要だということで、即入院、翌日手術となった。「まだ胎児になってないので、悲しむことはない、またチャンスはある」と慰められたがショックは大きかった。奥さんは生まれてくる子が男だと決めつけて、名前は「太郎」にしたいと言っていた。それから3年間はガンが発症しないか予後を監視する必要が有ると言われ、基礎体温を記録する日々が続いた。

 

3年間は何もなく乗り切ったが、それから奥さんは子供に恵まれることは無かった。でも奥さんはそのことを悲しむことも悔やむこともなかった。彼女の人生観は「自分に起きたことはすべて受け入れる」というものだった。子供があることの喜びがあることは確かであろうが、ないならないでそれを受け入れて、その人生を最大限、楽しむというのが彼女の人生哲学である。そのとおり奥さんはとことん人生を楽しんで逝ってしまった。