僕がクライミングを始めた頃は、松山でボルダリングをする人間なんて10人もいなかった。

今では、ジムでコンスタントに登っている人は、少なくとも100人はいる。

ジムに通っている人は多くても、そのほとんどの人にとっては、ボルダリングってのは人工壁で行うもの。

岩を登るということ自体が、ピンと来ないようだ。

 

日本全国どこでもそうだが、岩場を知らない人がメジャーで、岩場に行く人がマイノリティー。

それが今のクライミングジムコミニュティーだ。

 

それがどんどん膨らんで、「たまには岩でも触っとく?」という感じで岩場に溢れ出した結果、河原でドンチャン騒ぎがしたいだけの人とか、安全第一の正論を翳してなんでもありにしてしまう人とか、悪気もなく人工壁のごとくやばい落ち方をする人とか、数字で自己顕示したいだけの人とか、想像しただけで頼むから来ないでくれと思うような方々が出没し始め、むしろ「これこそが外岩ボルダーの醍醐味です!」みたいな風潮が伝染しつつある、メジャーエリアも中にはある。

(心当たりがある方は、岩を登りに来ないで下さい。)

 

そうなってほしくはない。

岩場に行くという文化が、四国ではまだ辛うじて希薄な今だからこそ、仁淀の、四国の、ボルダーの素晴らしさを伝えるチャンスなのかも知れない。

 

その素晴らしさって、何なのか。

それを、どう表現するのか。

 

昨日、松山で開催されていたアウトドアフォトグラファー藤巻翔さんの写真展を訪れて、一つヒントを貰った。

その瞬間、その場所に居合わせることの重要性。

 

岩を登っていると、様々にコンディションが変化して行く。

一晩中雨が降ってダメ元で岩場に行ってみると、朝日に照らされた岩から靄が立ち込め、見る見る乾いて行った時の胸の高鳴り。

1日中打ち込んで体はボロボロなのに、日没間近のラストトライで全てが繋がった時の不思議な感覚。

完登を目前にして、急速に岩が結露し始めた時の焦り。

次でキメるというところで、今まで使っていたホールドが見事に砕け散った時の愕然とする思い。

初登を懸けたセッションで、誰も出せなかった一手を出して、一線を超えて行く英雄。

 

そこに居合わせた人だけが共有する、数値化できない価値がある。

岩登りをよく知らない人にこそ、それを感じ取ってもらえるようなものが出来れば。。。

 

しもぶくれチムニー 5.8