タケルくん特集:僕らの末裔・義経の奇策(^-^)/ | リアライズの雑文:思い浮かべて

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 僕の名前は建皇子(たけるのみこ)(^_^)/

 今回は、僕ら(正確に言うと、僕の父である天智天皇)の末裔になる義経の驚異的な奇策の一つを少しお話しますね(~_~)

 「 一ノ谷の戦い」 後に鎌倉幕府を開く源頼朝軍と平氏軍との戦いの一つでして、その中で、戦況を優位に進めるべく、鵯越の逆落としという奇策を決行した源義経の話ですよ(^<^)


 と、源氏と平氏の話をすると、タケルくん口調の書き出しで始めるのが癖になった私ですm(_ _)m ただ、源平に興味のある方で、建皇子(僅か8才で死去したものの、日本の歴史に大きな影響を与えた障害児です!)のことを知っている人は、かなり少ないでしょうね(~_~;)

 ちなみに、義経は、天智天皇の17代後の末裔に当たります(^O^)

 

 そういったことはさておき、今回、私が訪れましたのは、神戸市須磨区にあります須磨浦公園です!(^^)! あるテレビ番組で鵯越の逆落としのことが取り上げられているのを見て、この目でその場所を見てみたくなったんです(~o~) 最寄りの駅は、山陽電鉄本線:須磨浦公園駅なんですが、そちらの駅は帰りに利用することとして、今回の行きは、JR山陽本線:須磨駅からとしました(^^♪ 国道に沿って、東西に細長い公園が続いています(=^^=) 駅から西へと進んでいきますと、源平史蹟 戰の濱の石碑が見えてきます(#^.^#) 公園の南端、車の排気ガスや振動に晒されている場所に建っています(-_-;)

 

 こういう石碑を見ますと、裏面も確認したがる私! 今回も石碑の裏側に回ってみましたが、昭和135月 神戸市観光課とシンプルに刻まれているだけでした(・・;) 設置年月日と当時の担当部署名なんかよりも、由緒や説明を刻んでほしかったんですけどね(^_^;)

 

 すぐ横に簡単な説明板があります(*^_^*) プラスチック板かガラス板か何かで覆われているため、陽の光が反射して、中が少し見えにくくなっています(T_T) 1184(寿永3)27日の源平の戦いにおいて、この辺りは平氏の陣が置かれた場所で、海岸は激戦の地となったと記されています(+o+) 戦いの模様とか武将の事績について、もう少し詳しく記述してほしかったです(~_~;)

 

 それで、このときの一ノ谷の戦いで用いられた奇策が、義経の鵯越の逆落としなんですね(^_-) 急な崖を目の前にしたとき、何か策を講じられないかと考えていたところ、この崖を鹿が下りているという話を聞き、それならば馬も下りられるだろうと判断して、その結果、騎馬で崖を駆け下り、谷に陣取る平氏軍の背後を急襲し、勝利を呼び寄せたというものです(^_^)v でも、テレビ番組での検証では、馬の蹄は一つ、鹿の蹄は二つ(正しくは、主蹄二つ、副蹄二つ)でして、鹿と比べると、馬は崖を下りにくかったようです(@_@) そこを無理して駆け下りさせたようです(ー ー;) また、鵯越の勾配角度ですが、上の方は30度であったものが、途中から40度の急勾配になったとも紹介されていました(^^;) 40度とは、スキーの直滑降競技場並みの傾斜らしく、そこをよく馬が武者を乗せて下りられたものだなと感心してしまいます(=^^=)

 それで、鵯越なんですが、その地名の場所は現存しています(^^♪ しかし、この一ノ谷からは東へ約8キロメートルも離れた位置にあります(・・;) そのため、逆落としが行われたのは、現在の鵯越の地ではなくて、一ノ谷のすぐ裏手の鉄拐山近くと考えるのが主流となっているようです(^^) 先ほどの石碑からすぐ裏手(北方)に上り坂があります(^-^) 公園からは外れます(^^;) コンクリート舗装されていますが、蛇行した坂です(・・;) その坂を上りきった辺りが逆落としの決行場所なのでしょうか、上から海岸周辺を見下ろしてみました(~_~) 今は、転落防止柵が設置されています(~_~;)


 

 1184年当時は、単なる崖の地形だけだったはずです(+o+) 義経はこんな崖をよく騎馬で駆け下りようと決断したものですね(^^;) 騎馬戦を得意とする坂東武者の緻密な計算、経験則に基づく判断なのでしょうか(・・?) それとも、単なる思いつきなのでしょうか(・・?) ←もし思いつきなら、部下はたまったものではないですね(-_-;) 義経の考え方は今もよく分かっていません(・・;)