鴨沂高校と、森光子、藤原道長、源氏物語 | 京都の講師の雑記録

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京都の塾で、現代文・古文・漢文・世界史などを教えている講師の雑記録です
京都ネタから、国語指導関係、世界史雑学まで、さまざまな記事を書いていきます

この記事は、以下に掲載したものです。
http://www.tops-kyoto.com/blog01/cat16/000288.html

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先日、女優の森光子さんが亡くなりました。

彼女は旧制高等女学校である「京都府立第一高等女学校」を中退していますが、
同校は明治5年に開設された日本最古の女学校である、「新英学級及女紅場」を前身としています。

その第一高等女学校が、昭和23年に新制高校とされたのが、今の「鴨沂高校」です。

「新英学級及女紅場」は最初、九条殿河原町邸跡に造られたので、九条家の門を引き継いだのですが、
それが現在地に移る際に、門も移築されたため、今の鴨沂高校には立派な門があります。

それだけ歴史の古い学校ですから、色々な武勇伝があって、
日本で最初の室内温水プールの授業が行われたとか、ヘレン・ケラーが講演をしに来たとか、
明治天皇が行幸したとか、かつては京大進学者数が全国一だったとか。

卒業生も多岐にわたりますが、国語教師的立場からすれば、山崎正和、李良枝の両名ですかね。

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山崎正和さんは、言わずと知れた、大学国語入試問題の定番です。
元は演劇が専門(?)ですが、巨視的な視点にたった文明評論で知られます。
「水の東西」は、高校現代文の教科書の定番素材ですし、
『劇的なる日本人』『柔らかい個人主義の誕生』『社交する人間』などの著作は、しばしば入試問題の出典になります。

論理的にはしっかりしており、内容も知的に充実している上に、贅肉のない、密度の高い文章なので、高校現代文の教材としては最適なわけです。

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李良枝さん(イ・ヤンジ)は、在日韓国人2世の作家です(9歳の時に日本国籍取得。田中淑枝)。
1989年、『由熙』(ユヒ、유희)で第100回芥川賞を受賞しています。
デビュー作で、第88回芥川賞候補作になった「ナビ・タリョン」を始め、在日韓国人として日本で生きることの問題や、逆に、「祖国」韓国で生きることの難しさを描いています。
彼女が観光旅館に住み込みで働きながら、高校3年の時に編入したのが、鴨沂高校でした。
そこで、彼女は次第に民族の問題を考え始めたようです。
大変、期待された作家でしたが、1992年に37歳で亡くなっています。

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鴨沂高校のグラウンドの南側に、本当にひっっっそりと立っている石碑があります。


実は、これは、「法成寺址」(ほうじょうじあと)を示す石碑です。

法成寺とはあまり聞きなれないと思いますが、藤原道長が建立し、晩年を過ごした寺です。
絶対的な権力者だった道長が、阿弥陀信仰に傾倒し、全精力を傾けて造営した寺でしたから、
それはそれは豪勢なものだったことは、容易に想像されます。
極楽浄土に行けるよう、極楽浄土の法主である阿弥陀如来にすがるのが阿弥陀信仰ですが、
道長は、その目的で、九体阿弥陀堂(無量寿院)を作ったとされます。

なお、道長の日記『御堂関白記』の「御堂」とは、この法成寺のことを指します。

 法成寺模型

しかし、すでに鎌倉時代には荒廃していたようで、以下に示す、『徒然草』第二十五段の、子細に渡る描写ぶりからは、兼好法師がその荒廃ぶりにかなり強い感慨を抱いていたことが分かります。

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なお、鴨沂高校から北に300mほどのところにある「廬山寺」(ろざんじ)は、『源氏物語』を著した紫式部の邸宅跡に比定されます。
紫式部は、道長の娘・彰子に仕え、道長の支援を受けながら物語を書いたと考えられますから、
この一帯は、道長関係者の住まう地域だったのですね。
 廬山寺の「紫式部邸宅址」の朱印


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『徒然草』第二十五段

京極殿・法成寺など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるままにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。
 されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟てんこそ、はかなかるべけれ。

(口語訳:京極殿(きようごくどの)や法成寺(ほうじようじ)などを見るにつけて、建てた人の願いは今に残っているのに、その遺業はこんなに変って面影をとどめていないのは、まことに感慨深いものである。御堂殿(みどうどの)が、りっぱに造営なさって、私領をたくさんご寄進なされ、自分のご一族だけが、天皇のご後見役、天下の重い鎮めとして、将来までもと考えておかれたとき、たとえどのような世になっても、これほど変り果てようと思われたであろうか。大門(だいもん)や金堂(こんどう)などは、近ごろまであったけれど、正和(しようわ)のころに南門は焼けてしまったし、金堂は、その後倒れ伏したままで、再建のこともない。無量寿院(むりようじゆいん)ばかりが、法成寺の形見として残っている。堂内には、一丈六尺の弥陀如来像(みだによらいぞう)が九体、まことに尊いお姿で並んでおいでになる。行成大納言(こうぜいのだいなごん)筆の額や兼行(かねゆき)の書いた扉の文字が、今でもはっきり見えるのは、まことに感慨深いものである。法華三昧堂(ほつけさんまいどう)なども、いまだに残っているようである。これもまた、いつまで残るものであろうか。この程度の遺跡さえ残っていない、あちらこちらでは、たまたま土台石だけ残る所もあるが、それが何の跡であったか、たしかに知っている人もない。
 こういうわけであるから、何事につけても、自分の死後のことまでを、あらかじめ考えはからっておくようなのは、まったく、頼りないことというべきであろう。)