『BOHにゃんまた来年』

 

生前の藤岡先生が僕に交わした最後の言葉だ。

 

2017年12月30日、僕は実家がある北海道旭川市に帰省していた。

その日の夜、藤岡先生の奥さんから電話があった。

 

『幹大くんが高い所から落ちちゃって入院しました。意識はあります』

 

藤岡先生は音楽以外にも天気図とか、宇宙が大好きだ。

 

Twitterに写真をアップする以外にも、時々僕らに夜空や月の写真、

高層天気図から独自に解析した天気予報を送ってくれていた。

 

『BOHにゃん、今ここに気圧の谷があんねん』

 

『わかんねーよ(笑)』

 

そんな会話は日常茶飯事だった。

 

でも藤岡先生の天気予報は的中率が高い。

 

また僕へ夜空の写真と共に『今日の夜空。そして明日の天気は...』みたいに送ろうとしていたのだろう。

 

東京へ戻ったら見舞いに行かんとな...

 

2018年1月2日に東京へ戻った。

 

 

すぐに藤岡先生に会いに行こうと思ったが、ご家族以外の面会は出来ない様子。

 

仮BANDのアルバム制作をはじめ、その他のスケジュールもいっぱい詰まっているであろう。各所への連絡を含め、今後の予定を知るために藤岡先生のスケジュール帳を入手する必要がある。

 

 

1月5日

 

『容態が急変してたった今、幹大くんが亡くなりました』

 

奥さんからの電話に僕は動揺を隠せなかった。

 

悪い冗談だと思いたい。これは夢だと思いたい。テッテレー♪って看板を出して欲しい。

 

 

1月6日

 

近しい関係者を集めて緊急会議

その後、藤岡先生に会いに行った。

 

奥さん、娘さん、ご両親に囲まれて笑顔で眠っていた...

 

こんなに冷たい藤岡先生に触るのは初めてだった。

 

 

1月7日

 

お別れの準備をしなくてはならない。

 

 

1月8日、1月9日

 

お通夜 告別式

 

 

僕が初めて藤岡先生に会ったのは約4年前。

 

スタジオの中で譜面を見ながら難しい曲を弾いてた。

その時はこんなに親しくなるとは思っていなかった。

 

身長158cm、長い髪、可愛い見た目...でも声はおっさんだ。

 

 

藤岡先生はタバコが大好き。

 

少しでも時間が空けば、喫煙所へ行く。

自分のタバコが無くなると僕のタバコを勝手に吸う。最後の1本にも手を付ける。

 

『BOHにゃん、あとで返すから』

 

返ってきた事は1度もない。

 

 

酒に弱いくせに酒が好き。

 

身体が小さいのに僕と同じペースでガンガン飲むから、すぐに酔っ払う。

泥酔寸前の藤岡先生を介抱するのがたまらなく面倒だった。

酔うと自分の髪をクシャクシャにしながら僕の頭を延々とペチペチ叩く。

一度7割位の力でどついて黙らせた事があった。

 

 

ギターと音楽が大好き。

 

セッションやサポートの仕事以外にも、長く音楽学校の講師や教本などの執筆もしていた。ギターさえ弾ければどんな仕事も平気で受ける。

 

『わては、仕事は選ばん。他人からどう見られようと、何言われようとギターさえ弾ければええねん』

 

リハの休憩中や本番前もギターを離さない。

食事しながら左手はネックを抑えていることもよくあった。

 

スケジュールが詰まりまくっているのに、雑誌の執筆の仕事も無理やりねじ込む。

頼まれたら断れないのが藤岡幹大。

ツアー中もしばしば原稿を書いていた。

 

でも少し疲れるとビール飲んじゃうから効率が悪い。

 

 

周りの仲間が大好き。

 

『BOHにゃん、一緒に飲みに行こうや!』

そしてなぜかいつも僕が多めに払う事になる。

 

『今度なんかおごるから』

おごってもらった事は1度もない。

 

同じ事をまわりに何度も話す。たいして面白くもない会話を掘り下げようとする。

常に人と話していたいヤツなのだ。

 

『BOHにゃんは毒にも薬にもならん話をよくするなー』

 

言われる筋合いはない。

 

一緒に飯を食べ、一緒に飲みに行き、一緒に買い物し、一緒にトイレ...ガキか(笑)

 

なるべく一人でいたくないのが藤岡幹大。

他人の悪口も絶対に言わない。好かれたがりな一面もちらほら。

 

ただ、ツアー中は誰よりも大きく荷物を広げて散らかすし、物をよく無くすから周囲に迷惑をかける。

どこに置いたかわからなくなった携帯電話やライターを見つけてやるのが僕らの仕事。

 

 

家族が大好き。

 

お父さんとよく釣りに行った事。

お母さんが実家の八百屋で元気に働いている事。

むかし妹が超ヤンキーだった事などを度々話してくれた。

 

藤岡先生から子供時代の話で一番よく聞いたのは

 

『わてな、海行って勝手に牡蠣を取ってその場で腹一杯食べるのが好きやってん』

 

小さな密猟者である。

 

藤岡先生は賑やかな事も大好きで、それを表すかのようにご両親や叔父さんがとにかく明るく、喋りだしたら止まらない。葬儀中も皆んなを爆笑させていた。

 

 

そして何よりも奥さんと娘さんの事が大好き。

 

Twitterにもよく娘さんの写真をアップしていたが、それ以上に僕らに写真をたくさん見せてくれた。

 

LINEのグループで大切な事を話し会っている最中でも、娘さんや奥さんの写真を次々にアップしてくるから、文が読みづらくてたまらない。

 

藤岡先生と会うと1日に2〜3回は必ず

 

『うちの嫁がなー...』

 

『うちの娘がなー...』

 

という会話になる。

 

『先生、もし将来娘さんがミュージシャンの彼氏連れてきたらどうする?』と聞くと

 

『一緒にスタジオに入ってギターバトルや!ほんで譜面の初見対決して勝ったら認める』

 

という事を本気で話していた。勝てるわけがない。

 

藤岡先生とはたくさんの思い出がある。

 

短い間だったけど、それを埋め尽くすくらい濃密な時間を過ごせた。

 

 

僕が藤岡幹大の事を『先生』と呼んでいるのは、単にギターの講師をしていたからではなく、歩く音楽理論書と言っても過言ではないくらいの音楽知識を持っていたからだ。

 

それに、少し迷惑をかけられても『藤岡先生さー...』と切り出せばその後に続く会話は和やかになる。

 

人は時々考える『死』とは何か...

 

僕が思う本当の死は、皆んなに存在を忘れ去られた時だと思う。

 

僕は藤岡先生を死なせたくない。

 

この先も永遠に生き続けて欲しい。

 

いや、生きていてもらわなきゃダメだ!

 

藤岡先生の声、ギターの音色、たくさんの思い出は、僕ら皆んなの心の中に鮮明に記憶されている。

 

それを、これからもっともっと広めて行きたいのだ。

 

つい2週間前くらいに藤岡先生が僕に話した今後やりたがっていた事や、叶えたい目標、音楽への思い...それをしっかりと叶えなければならない。

 

僕ら仲間は藤岡先生の思いを背負ってこれからも音楽をやって行く。

 

これからも一緒にプレイし続ける。

 

 

でも藤岡先生、今は少しだけ休憩してて良いからね。

 

ありがとう。藤岡先生。

 

また一緒に飲もうな(B・o・H)